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『相良知安関係文書』の編者による「出版記念講演会」(R6年10/19)が盛会裡に終了し、講演概要を紹介します!

  待望の『相良知安関係文書』(令和6年10月8日刊行)の出版に伴い、編者である青木歳幸(佐賀大学特命教授:日本医史学会理事)による【第237回歴史館ゼミナール「出版記念講演会」】が開催されました。当日は生憎の雨天でしたが、大勢の聴講者が参集され大盛会裡に終了しましたので、ご紹介します。       演題は「相良知安の人と思想ー近代医学知の創造」です。

  明治政府は、新しい医療制度を構築するにあたり、ドイツ医学を範ちすることに決定した。佐賀藩出身の蘭方医相良知安がその過程で中心的役割を担ったことは広く知られている。しかし、新政府の医療制度あるいは医療教育制度の根幹である「医制」の草案が、知安の苦心によって編まれたにも拘わらず、その功績が評価されているとは言いがたいのが実情である。 

 今回出版の佐賀城本丸クラシックス『相良知安関係文書』では、この現状に再検討を迫るため、「医制」の初期草稿「医制略則」の全貌を、口絵写真により一挙公開することになりました。さらに医学に関わる相良の著述、書翰など、主に相良家に伝存する史料・文書類を翻刻収録したものです。

編者渾身の力作であります本書について、従来の通説にない新しい相良知安像を語ります。

  講演の目次は、1.『相良知安関係文書』の刊行とその意義、 2.相良知安の修学と思想形成、3.『医制』へのあゆみ、 4.『医制』への佐賀藩医学教育の影響、の以上です。

 講演は83枚のスライドを駆使され、格調高く講演されました。その概要・内容を下記の通り報告します。

   ※【講演会場の案内パネル】                  ※【『相良知安関係文書』の外装】

☆1.『相良知安関係文書』刊行とその意義

 ◎「医制」との名前を御存知でしょうか? ◎「医制」(明治7年公布)とは、①西洋医学教育の確立、②医師開業免許制度の樹立、③我が国近代的医薬制度の確立、を目指した画期的な医学法律です。◎「相良家資料」(佐賀県立図書館蔵)には、①『医制略則』(85章:明治6年6月までに作成成立)、②『医制』(78条:明治6年12月から明治7年3月31日頃作成成立、「永松」の名前が表紙に朱書で記載され、「永松本」と呼ぶ)、③『医制』(76条:(明治7年8月18日公布と同じ内容)が所蔵されている。◎これまで学会での『医制』成立を巡る研究史は、二代目医務局長長与専斎が立案したというのが通説となっていた。◎『相良知安関係文書』の出版により、『医制』の立案者は長与専斎でなく、相良知安と第一大学区医学校グループであり、相良知安らは佐賀藩の医学教育の影響が強かったことを明らかにした。(※『医制略則・『医制』等の「相良家資料」は、佐賀県立図書館DBにて閲覧出来ます。「相良家資料」と入力し検索する。)

◎医学史の研究者として、冨士川游氏、山﨑 佐氏、小川鼎三氏、川上 武氏、宗田 一氏らが著名です。(※◎神谷昭典氏・根本曽代子氏・青柳精一氏らは、長与専斎説を主張してきた。これに対し尾﨑耕司大手前大学教授は、論考【「明治「医制」再考】のなかで、史実を基に相良知安が『医制』を主導したことを立証された。)

※尾﨑教授の論考【明治「医制」再考】→→./407.html

            ※【講演される青木歳幸佐賀大学特命教授】

☆2.相良知安の修業と思想形成☆

 ◎相良家は、代々佐賀藩藩医として紅毛流(オランダ流)外科医の家系である。◎佐賀藩は嘉永4(1851)年、(西洋医学)試験合格者から医師開業許可を与える「医業免札制度」を開始した。◎相良知安は、藩校弘道館から藩医学寮・藩医学校好生館で学び、藩命にて佐倉順天堂塾・長崎養生所(精得館)へ留学し、ドイツ語を原著とする西洋医学教育を学んだ。長崎では蘭医ボードインに師事し蘭医学を学び精得館長に就任。◎好生館医学七科とは、①格物窮理、②人身窮理、③解剖学、④病理学、⑤分析学、⑥薬性学、⑦治療学。

☆3.『医制』へのあゆみ☆

 ◎明治2年1月23日、知安は岩佐純(福井藩医)と共に、「医学校取調御用掛」の辞令を拝命し、どの国の医学を参考に導入するか・医学校建設へと取り組みを開始した。◎ドイツ医学の優秀性を説く知安。「西洋医学ノ盛ナルモノハ独逸ナリ、英仏ハ害アッテ利ナシ、蘭ハ小国日々ニ衰ルノミ、蘭英ヲ斥ケ独ヲ採ルベシ」と強く主張した。◎知安は、大学東校(東京大学医学部の前身)の教育課程編纂(医学七科・予科・本科制)。◎「護健使(くすし)思想」を提唱ー医師の名前を護健使(クスシ)と改名し、健康を保持・守る予防医学の職名を主張した。また医学校を各県単位に設立すべきと主張した。◎知安は明治3年9月、突然弾正台より拘束・逮捕され、部下の不正に連座された冤罪であった。明治4年11月に約1年ぶりに無罪で無事釈放された。◎明治5年10月8日、知安は文部五等出仕し、「第一大学区医学校学長」(東京大学医学部の前身)を拝命した。◎『薬剤取調之方法』(28条)を作成するー第一大学区医学校の用箋紙を使用。◎これは我が国国土・民風に合う薬剤制度である。◎10条には医薬分業の規定がある。これが根拠となり従来の我が国の医薬分業は、長与専斎だとする説は誤りです。各条文は省略します。◎第2代医務局長長与専斎が6月15日「医制取調」の通達をうけて、(医制)を開始したとの説は誤りです。ー菅谷章著『日本医療制度史』(原書房:1976年)は長与説である。◎当時、第2代医務局長長与専斎(文部五等)は、相良知安(文部四等)より下位の地位であり下僚であった。◎明治6年12月12日の「伺書」にて、知安が「第一大学区医学校学長」へ復帰した。◎知安が、『医制』原案を太政大臣に提出した明治6年12月27日には、長与専斎は文部省から工部省少丞へ転勤していた(史料:国立公文書館『職務進退・叙位録』明治6年1月~8月綴)。

☆4.『医制』への佐賀藩医学教育の影響☆

 ◎長与専斎の回顧と自慢ー自伝『松香私志』の中で、【自らが新たに「医制」と衛生制度を創設した】と述べている。◎「医制略則」・「医制」に規定された「医師国家資格試験制度」は、日本史上初めての制度である。◎「医師国家資格試験制度」の先駆的制度が、佐賀藩にあった。◎佐賀藩医学校好生館における西洋医学導入・漢方医禁止がある。◎幕末期好生館では、ドイツ語原著の教科書を採用していた。峯源次郎(伊万里出身の医師)の著作『日暦』の紹介。◎佐倉順天堂塾でも長崎精得館でも、ドイツ語原著の医学教育を学んでいた。◎明治期に好生館で教師を務めた沢野種親の履歴書の紹介。◎佐賀藩に於ける薬剤取締の歴史。◎特産薬烏犀圓の製造ー八代藩主鍋島治茂公ー佐賀藩施薬方の設置。◎烏犀圓の調合の基は中国の『太平恵民和剤局方』。◎烏犀圓鑑定願の変化ー水銀・軽粉・白附子一の禁止。◎伊東玄朴ー江戸城二の丸製薬所での西洋薬の製造。◎明治7(1874)年、東京司薬場の設置。永松東海初代場長就任。◎田原良純(我が国最初の薬学博士)・丹羽藤吉郎(薬剤師会創設)はの両氏は、佐賀藩出身。

★【長与専斎が「医制」を立案したという所説の修正について】

 長与専斎「医制」立案説に対し、尾﨑耕司氏(大手前大学教授)が【明治「医制」再考(『大手前大学論集』16号・2015年】の論考で、「医制」の成案は相良知安が主導し、第一大学区医学校グループらが一貫して作成したと著述されました。さらに近刊の青木歳幸編『相良知安関係文書』(佐賀城本丸歴史館発行:2024年)にて、「解説」の青木歳幸氏「相良知安の人と医療思想」、及び「寄稿」の尾﨑耕司氏【「医制略則」と「医制」の成立について】のなかで、その見解を補強されました。さらに編者の青木歳幸佐賀大学特命教授による「出版記念講演会」【演題「相良知安の人と思想ー近代医学知の創造-」於佐賀城本丸歴史館、2024年10月19日)を拝聴して、長与専斎が「医制」を立案したという所説の修正を、より多くの皆様・研究者に情報提供すべきと思料し、尾﨑氏論考及び青木氏講演を基に下記の通りまとめました。

                               記

①史料『薬剤取調之方法』を長与専斎がまとめたという説は誤り。明治6(1873)年5月までにまとめられた『薬剤取調之方法』(佐賀県立図書館所蔵「相良家資料」)では、第十条に「医薬分業」の規定があるが、我が国の医薬分業を条文化したのは長与専斎だとする説は誤りである。→※根本曽代子氏は著書(『日本の薬学ー東京大学薬学部前史ー』(南山堂:1981年)のなかで、『薬剤取調之方法』を『薬剤取調之法』と誤記されている。根本氏はその著書の中で、「長与医務局長は、医薬分業を骨子とする本案(『薬剤取調之方法』)に基づき(同著P89)と記述しているが、『薬剤取調之方法』は、第一大学区医学校の用箋紙に記載されており、明治6年5月当時の第一大学区医学校校長は相良知安であり、長与専斎ではない。よって『薬剤取調之方法』の原案は、相良知安がの主導によるものである。※長与専斎は、「岩倉使節団」に随行し、明治4(1871)年11月から明治6年3月に一足先に帰国した(使節団は同年9月に帰国)。

※青木特命教授の論考『薬剤取調之方法』→→./748.html

②第二代医務局長に就任した長与専斎が、医制取調べを開始した説は誤りです。→菅谷章氏は、「明治6年6月15日に太政官から文部省へ医制取調方が達」せられたため、長与専斎が「医制」を取調、「医制」を公布した」(菅谷章著『日本医療制度史』原書房:1976年)と記述したが、6月15日の太政官からの「達し」は、文部省から昨年(明治5年)11月に贋薬防止のため司薬局設置を願い出ていたので(『薬剤取調之方法』原案は、明治5年11月には提出されていた。長与は「岩倉使節団」随行のため、日本には不在である)、正院から明治6年3月28日に、外務省、法制課、大蔵省からそれについての申牒(意見)が出ていたので、再審議するようにとの「達し」が出て、その達しを受けて文部省では司薬局設置につき、『薬剤取調之方法』の成案を整理し、その成案を付けて5月20日に上牒していた。それに対する正院からの各関係省庁への再審議の命令で有り、長与専斎が第二代医務局長就任前の段階で、相良知安らの司薬局設置等の医制提案を受けての「医制」取調だった。

③長与専斎が「医制」原案を作成したとの説は誤り。→長与専斎が第2代医務局長に就任した6月13日以前から、相良知安らにより「医制」原案が作成されており、しかも2代目医務局長の長与の地位は、「文部五等」であり、初代医務局長を退いた相良知安は「文部四等」であるので、長与専斎は相良知安より下僚のままであった。→同年12月12日に、第一大学区医学校及び病院の新築について、ミュルレル(※明治4年8月明治政府より、お雇いドイツ人医学教師としてホフマンと共に大学東校へ赴任した人物)らからの、文部省少輔田中不二麿へ提出した「伺書」の末尾には「同(第一大学区医学校)学校長 相良知安」とあり、相良知安が第一大学区医学校校長として「伺書」を提出している。→「医制」が文部省田中不二麿から太政官に提出されたのが、明治6年12月27日であり、実は長与専斎は同年11月2日付けで「文部省五等出従五位長与専斎工部少丞」と文部省から工部省への転任が命ぜられていた。実際に工部少丞として就任したかは不明だが、少なくとも長与専斎の名前で「医制」は太政官へ提出されていない。

 

☆まとめ☆

◎我が国近代医学制度は、『薬剤取調之方法』から『医制略則』、『医制』へと繋がった。

◎『医制』は、長与専斎が立案したのではなく、相良知安ら第一大学区医学校(東京大学医学部の前身)グループが作成・立案したものであった。

◎『医制』における「医師国家資格試験制度」の導入は、我が国始まって以来の制度であったが、その先駆的制度は、佐賀藩の「医業免札制度」にあった。

◎ドイツ語による医学教育は、明治政府のドイツ医学導入(明治2年)決定から始まったのでは無く、佐賀藩医学校好生館や佐倉順天堂塾・長崎精得館に於いては、幕末からドイツ語原書による医学教育が行われていた。

◎幕末に蘭医ポンペにより伝えられた医学七科は、佐賀藩好生館でも開始当初から学習科目になっており、科目に一部変遷があるものの、相良知安によって『医制略則』に位置付けられ、そのまま『医制』へと繋がった。

◎予科・本科の教育課程も、長崎でマンスフェルト【※慶応2(1866)年、蘭医ボードインの後任として長崎に来日した蘭医】の実施を受けて、好生館でも実施され、『医制略則』・『医制』によって、我が国近代医学教育制度となった。

◎薬事制度も含め、佐賀藩好生館の西洋医学教育は、我が国近代医学教育の先駆だった。

◎相良知安が西洋医学制度をそのままでなく、我が国風土に合った制度を踏まえて導入してきたことに、我が国の外国からの制度導入、発展のヒントがあるように思う。

◎本書所載の史料を多角的に読み解けば、新たな日本近代医学成立史が見えてくるだろう。

 

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