相良知安の逸話(エピソード)五話を紹介します。

 相良知安の知られざる逸話(エピソード)五話を紹介します。

★逸話Ⅰ(エピソードⅠ)-相良知安と江藤新平の友情★

 知安と江藤新平(司法卿)は、同じ佐賀郡八戸村出身で、佐賀藩士として共に育ち二歳年上の新平と竹馬の友の関係がありました。 町内で近所の寺院(「龍雲寺」と「長安寺」)の境内やクリーク(堀)で鮒釣りして遊んだ仲間でした。新平の幼名は又蔵であり、「又蔵とは遊んでばかりで、共に学んだ藩校(「弘道館」)では落第しない程度に勉強した」と、知安は後年手記で述懐しています。

 ※江藤新平生誕地(現在の佐賀市八戸1丁目)

二人は雄弁家で、冴えた頭脳と行動力で相手を徹底的に論駁し、追求する性格も似ているので、多くの敵を作りました。明治3(1870)年9月13日、知安は太政官宛の建白書(「護健使」)を持参して、役所(「大学東校」)から馬車で面会に出かける時、正門で突然弾正台(警察)の官吏らに、知安の部下による官費不正消費があったとの理由により、不当に拘束・逮捕されました。(※9月13日に身柄拘束と取調を受け、同年11月27日に入獄させられた。)

拘留は、翌明治4(1871)年11月27 日に釈放されるまで、1年2ケ月間にも及びました。この間何の取調や裁判も開かれず、知安にとって暗黒の期間となりました。逮捕には、知安がドイツ医学を導入を主張した際し、敗れたイギリス派の元薩摩藩・土佐藩出身(元土佐藩主で大学知学事の山内容堂が辞職させられたのは、知安の主張のせいであると部下の元土佐藩士達が邪推した)の官僚達から恨みを買い、意趣返しを受けたと云われています。

この拘束されていた時期に知安は、主君鍋島直正の死去(明治4年1月18日没)にもお付きの侍医として立ち会えず、待望していたドイツ人御雇い医師のミュルレル・ホフマンの赴任(明治4年8月23日横浜港へ来日)の出迎えも出来ず、悔しく悲しい気持ちであったのです。江藤新平も上京してから度々知安と会っていましたが、明治4年2月に太政官より「東京府警察取調御用掛」に任命されていました。

  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


   ※江藤新平(1834-1874)

明治5年司法卿に就任する前年でした。その頃知安の拘束の報を知り、早速新平が動き、冤罪であった知安の投獄を解き、やっと釈放して救ってくれたのです。二人の友情は、東京でも続いていたエピソードです。しかし新平は、明治6年には参議を辞職して下野し、明治7年に愛国公党を結成し佐賀へ帰郷。「佐賀の乱」(佐賀戦争)の責任を問われた新平は処刑されました(後年名誉は回復された)。知安は新平の行動を支持していたので、新平の悲痛な最後には、深く悲しみ悼みました。

 

★逸話Ⅱ(エピソードⅡ)-相良知安の情熱と先見性★

 文久3(31863)年、相良知安が28歳の時佐賀藩主鍋島直正から、長崎へ医学留学を命じられます。安政4(1857)に来日した蘭医ポンペは、長崎奉行所西役所にて蘭方医松本良順ら12名に西洋医学教育を開始した。文久元(1861)年、「長崎養生所(医学所)」が設立され、松本良順が頭取、ポンペが教頭に就任し、我が国最初の医学校となる。長崎養生所に入学した知安は、文久2(1862)年ポンペの後任として来日した蘭軍医ボードインに師事しました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

※長崎養生所(後の精得館)-長崎小島町-                                               養生所はその後「精得館」と改称され、相良知安は館長に就任する。知安は蘭医学、特に外科を専門として、ボードインから蘭医学を学ぶ。ある時、ボードインは塾生達を集めて真剣な表情で、「諸君の国は、今後何年経てばオランダや西洋諸国の医学に、追いつく事が出来るか」と質問しました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  ※ボードイン(1820-1885)

ボードインのとてつもない遠大な質問に、塾生達は互いに顔を見合わせ、首をひねるばかりだった。塾生の一人が「百年の将来です」と答え、それから次々と「否、80年かかります」、「70年です」、「50年」、「60年」等と続て答えた。知安は黙ってそれを聞いいていた。しばらくしてボードインは、知安へ向かって問うた。「サガラは如何に」と。知安は姿勢を正して、ボードインをじっと見つめて答えた。                            「左様、吾輩は14~15年後には、必ず欧州の文明に拮抗すると存じます。否、せしめまする」。知安の目は輝いていた。一座の塾生は知安の回答に唖然とした。一人ボードインは知安に歩み寄り、知安の手を固く握りしめた。「好漢自重せよ。御身を意気を以てせば、さもあらん」と激励しました。                       知安の発言は、無理な年数を述べたのではなく、情熱を持って行動すれば、西洋に追いつく医学制度と医科大学の創設を希求できる、と確信していたのです。知安の我が国医学の発展にかけた情熱と先見性が見て取れたエピソードです。                                               精得館でボードインからドイツ医学の優秀性を学んだ知安は、明治2年(1869)年に「医学校取調御用掛」に任命され、我が国へドイツ医学導入に尽力しました。明治5(1872)年に「第一大学区医学校」(現在の東京大学医学部)学長に就任し、明治6(1873)年には文部省医務局長兼築造局長を歴任して、知安が描いたドイツ医学流の「東京医学校」(明治7年)創設をついに成し遂げました。

   

★逸話Ⅲ(エピソードⅢ)-叙勲の栄誉に涙する知安-★

 知安は明治18(1885)年の50歳の時、文部省御用掛として編輯局勤務を命ぜられ、12月には非職を仰せ付かる。ここで長かった文部省勤務が終了しました。退官後の知安は、医者を捨て易者として生活の糧を得る貧乏な生活を送りました。東京での知安は住居を転々と移し、転居の度困窮し最後は、芝区神明町の裏長屋が終の住み家となりました。                                                    知安には、郷里に残した正妻のタミ(多美)とは別に、長い東京生活で一緒に暮らした権妻(ごんさい:側室)の女性(お豊)がいたのです。医友である医学者仲間である石黒忠悳博士は、特に昔と変わらぬ友情を示し、貧乏長屋を訪問しては、生活品や現金をソットお定に渡して援助していました。医学者の北里柴三郎博士も、ドイツ医学導入の大先輩である知安の困窮を聞き、慰問して援助していました。                               他に後藤新平(後の東京市長)も石黒博士から言付かった金品を差し入れるため、知安を訪問しました。知安と同郷の佐賀人である副島種臣伯(外務卿)も、知安を訪問して励ましていました。                                                       石黒博士が中心となり、明治33年1月に我が国医学界の著名な重鎮達17 名(池田謙斎・岩佐純・石黒忠悳・橋本綱常・長谷川泰・戸塚文海・大澤謙二・高木兼寛・長与専斎・佐藤進・實吉安純・三宅秀・青山胤通・緒方正規・三浦謹之助・山根正次・岡玄卿)の医学者に呼びかけ、連名による相良知安叙勲と修身年金下賜の請願書を、横山資紀文部大臣と賞勲局大給恒総裁及び山縣有朋総理大臣に提出し裁可されました。その結果、明治33(1900)年3月24日に、勲五等双光旭日章のご沙汰があった。

※有勲証明書と勲五等双光旭日章(相良家蔵)

 

知安は叙勲の報に接し、お豊と共に人知れぬ喜びの情けに涙しました。叙勲に際し、知安は貧乏のため礼服を持たないので、石黒忠悳博士が代理で拝受してくれました。それから石黒博士と知安は馬車にて、都内の医友達に御礼報告に回り、30年振りで初めてお正月気分がしたと述懐しています。不遇な晩年が続いた知安は、晴れ晴れした高揚感で素直に叙勲を喜ぶ姿に、知安の人間性を見ることが出来るエピソードです。

★逸話Ⅳ(エピソードⅣ)-知安と東京で一緒に暮らした女性-★

 相良知安は、明治2(1869)年正月23日、藩主鍋島直正の御供の侍医として上洛(京都)し佐賀藩邸に居た時、明治新政府より「医学校取調御用掛 行政官」の辞令を岩佐純(福井藩医)と共に受けた。さらに2月には、「医学校御取立ニ付至急東京江可罷下旨被仰付候事 行政官」との命を受け、岩佐純と共に上京した。ここから知安の東京での活動と生活が始まった。                                             同年5月には、「徴士大学権判事被仰付候事 但医学校御用可為専務事 行政官」を拝命し、知安は、新生日本に本格的な西洋式医学校を創設する意気に燃えていた。ここで現在判明している範囲で、知安の東京での住居変遷を述べてみたい。◆明治2(1869)年-①佐賀藩江戸藩邸(現港区三田)を転居し、②下谷徒町 ◆明治4(1871)年-佐賀藩「霊岸島邸」(現中央区新川) ◆明治6(1873)年-本郷区弓町1丁目11番地。この頃「駿河台」へ転居した可能性がある(調査中) ◆明治17(1874)年-本郷区弓町1丁目14番地 ◆明治18(1885)年頃-本郷区本郷真砂町。 その後 本郷区千駄木四軒長屋(四軒寺町)へ転居した可能性がある(現在調査中です) ◆明治24(1891)年頃-浅草区元鳥越町9番地 ◆明治26(1893)年頃-港区宇田川町1番地 ◆明治27(1894)年頃~明治39(1906)年まで、芝区神明町25番地 北ノ3号に居住。以上のように転々と住居を移転している。

※明治27年から相良知安が居住した芝神明町(現在の港区浜松町

 

当時の知安は、正妻多美(タミ)と子供を郷里佐賀に残して、単身東京に赴任していました。明治2年頃、同郷の友人である副島種臣(当時は参議、翌年に外務卿となる)から、「単身で上京し一人暮らしは何かと不便であろう。身の回りのお世話をする女性を紹介しよう」と知安に打診した。その女性は、名前を「お豊」と云う。お豊は、浅草雷門の仲見世寺茶屋「丈松」で働く女給であった(お豊は元会津藩士の娘であった)。                        知安は一目見て可愛いい美人のお豊を気に入り、同棲するようになります。翌明治3(1870)年9月13日(※9月13日身柄拘束と取調を受け、同年11月27日に入獄させられた。)、知安は太政官宛の「護健使建白書」を持参して、大学東校(医学校)の正門を出たところで、弾正台(現在の警察)の役人に、突然呼び止められ逮捕されてします。その間一度も取調や裁判も開かれず、冤罪の投獄でした。                                               投獄の詳細は、本ページの「逸話Ⅰ(エピソードⅠ)」を参照してください。知安は、当時の伝馬町(現東京都中央区日本橋小伝馬町)にある「牢獄」に不当に投獄されました。知安は、明治4(1871)年11月27日までの1年2ケ月もの間投獄されていたのですが、お豊は一日も休むことなく、弾正台へ食事を運んで慰労していました。お豊は、知安を「御前様」と尊敬して呼んでいたのです。 お豊は権妻(ごんさい)でした。※権妻とは正妻でない妻の意味です。明治中頃の民法改正まで側室は禁じられていなかった。 

   

   

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


  ※相良知安の妻-多美(タミ)-(1845-1928)

明治4年11月27日にやっと冤罪から解放された知安は明治5年10月8日に、「第一大学区医学校学長被仰付候事 文部省」及び「大学校設立掛被仰付候事 文部省」と続けて拝命を受けました。翌明治6年3月19日には「文部省医務局長兼築造局長被付候事 文部省」を拝命した。知安は、この時期に医制の草案である『医制略則』(85箇条)を起草しています。                    しかし同年6月13日に、「第一大学区医学校学長罷免候事 文部省」及び「文部省医務局長兼築造局長罷免候事 文部省」と相次いで罷免されました。知安が活躍した絶頂期は、わずか5年余りの期間(明治2年~6年)でした。                                    知安は上京してから郷里佐賀に残した妻子に仕送りを続けていました。知安はその後明治18(1885)年まで、文部省御用掛(編輯局勤務)として閑職部署に残り、同年12月に非職となります。文部省役人を非職となれば給与もなく、仕送りも出来なくなります。知安はこの時まだ50歳でした。       知安は明治2年に上京してから、明治39年に死去するまで、郷里佐賀には帰省することもなく、37年間も東京で生活していました。                                郷里の妻子に充てた知安の手紙が、残っていますので紹介しますと、「子供に対しては父母は即ち一体のものとして、合わせて親と申すなり。其故にお前さまの過ちは私の過ちでござる。私のほまれはお前様のほまれ、手柄でござる。子供に向ってお前 さまが申すことは、即ち私が申す事でござる。(中略)私はむつかしい男だから、石塔になりても、承知せぬことは承知しませんよ。又わかりさえすれば、ことわり言うにも、返事するにも及びませんよ」と記している。

 相良知安は、明治39(1906)年6月10日、インフルエンザにより芝区神明町25番地 北ノ3号の長屋にて死去しました。享年71。死去に際し、お豊から訃報を受け取った正妻の多美は、直ぐに上京しお定と遺骨に対面します。                                                        お豊は、天皇陛下より知安へ下賜された祭祀料金百円と知安の遺骨を多美へ手渡しました。知安が上京してから永年労苦を共にし、同居していた殊勝なお豊に対し、多美は万感の想いが胸にこみ上げたたのか、お豊の手を握りしめ、いつまでも二人で涙しました。天皇陛下より下賜された状文は下記の通りです。  

 

    故正五位勲五等 相良 知安

 曾テ本邦医学制度草創ノ時ニ當リ群議ヲ排シテ学制ノ基礎ヲ立テ其功績不尠ニ付特旨ヲ以テ祭祀料金百圓下賜候事

        明治三十九年六月十九日       宮内省                              

その後佐賀に遺骨を持ち帰った多美は、喪主として明治39年8月10日、菩提寺である「城雲院」(現佐賀市唐人2丁目)にて葬儀を営みました。       相良知安は、「城雲院」に眠っています。戒名は「鉄心院覚道知安居士」です。多美は、昭和3年9月26日で83歳の生涯を閉じました。多美の戒名は「貞林院浄節妙光大姉」です。

 ※相良知安墓所(「城雲院」佐賀市唐人2丁目)

 

★逸話Ⅴ(エピソードⅤ)-相良知安が、江戸(東京)で出会った占い師の予言-★

  ◎相良知安が、江戸(東京)で出会った二人の占い師(相者)【山口千枝(浅草)と石龍子(神明前)】とのエピソードを紹介します。

 筆者は、本逸話(エピソード)の執筆に際し先ず、多久島澄子様のご協力を得て紹介しました。

1.「相良知安翁懐旧譚」(明治37年:相良知安口述:『医海時報』連載)の(十三):明治37年5月発行の517号)を紹介します。  

 同誌には相良知安が、幕末の文久元(1861)年に佐賀藩から江戸と佐倉(現在の千葉県佐倉市)留学を命ぜられた頃、江戸浅草で有名な相者(※そうじゃ=易者のこと)である山口千枝(※男性です)と出会い、その奇妙で数奇なエピソードが記述されているので紹介します。                                                          本書は、相良知安が晩年(68歳)の頃、医事新聞『医海時報』(明治37年刊)に口述して連載された懐旧譚です。下記のHPサイト(「史料・史跡集」)には、本書の全文をPDFにて公開していますので、閲覧・参照してください。                                                                                                                                      【詳しくはこちら→→sagarachian.jp/main/381.html(「相良知安翁懐旧譚」ページ)】  

  同517号で相良知安は、「当時浅草に有名な易者で千枝というものが居た。私一日この易者を叩いて、色々身の上を卜なって貰うと、奇妙にもこの男の占う事が一々的中して、寧ろ気味が悪い位であった」と述懐し、さらに「私の将来に対する予言を聞いていたが、後年になって考えて見ると、この時の千枝の予言が日時までも違わず、ちゃんと当たっているには驚いた。‥‥」と記述しています。 続けて「‥‥さらにおもしろいのは、彼はこの時より既に「ご一新の革命」(※筆者注=明治維新のこと)を予言していたことである」。                                                                                                                                                                                                                       以上が、文久元年に当時25歳の相良知安が、「江戸浅草で相者山口千枝に占って貰った時の体験談です。また同号には、「‥‥誠に不思議な易者で、(明治)維新後再び或る所で千枝に会ったので、往年占易の的中を謝しますと、向こうではちゃんと私の名前まで記憶していました。    その後副島伯(※筆者注=副島種臣)の所で遭ったが、彼は妙見(※筆者注=日蓮宗)の信者だそうで、なんでも後年七十余歳に目を患いて没したそうである」との貴重な証言(山口千枝の晩年の経歴など)を残しています。                                                                                                                                                                   上記の記述(維新後)は、相良知安が明治政府に出仕した明治2(1869)年以降に東京で体験した経験談です。    この様に相良知安は、江戸時代(文久元年)と明治時代(明治2年以降)の二度、相者山口千枝と面会し占って貰っているのです。

2.「峯源次郎日暦」【多久島澄子翻刻・解題(青木歳幸編『西南諸藩医学教育の研究』2015年刊。平成24~26年度科研費報告書所收)を紹介します。                                                                                         

 ①「峯源次郎日暦」の明治3(1870)年4月11日の記載には、「明治3(1870)年4月11日、雨、奉師命、訪写真師内田九一、且浅草寺畔相者山口千枝観観千枝望観少久、而曰可也、刻苦惟勉哉達矣」(原文)とあります。内容は、相良知安の言い付けで寄宿生の峯源次郎は、浅草の写真師内田九一を訪問し、その後浅草寺畔側の相者山口千枝を訪ね、自分の学問到達を占って貰っています。  この時の千枝の源次郎に対する回答は、「苦労を重ねて務めれば達する」と記述されています。                                                ②「峯源次郎日暦」明治4年12月28日の記載には、相良知安が釈放されて一月後に当たる「明治4(1871)年12月28日、陰、為相良知安氏神明前三島丁相者石龍子。」(原文)とあります。 明治4年5月、ドイツ留学に出発した源次郎は経由地アメリカで引き返すとこを余儀なくされ、その年の11月19日に帰国しました。  そして年の瀬も押し迫った12月28日、知安先生のために、神明前三島丁(※現在の東京港区芝大門1丁目)の相者山口千枝を訪ねた模様です。しかしながら石龍子訪問の意図も結果も書いていませんので、「今後の知安先生の身の上を占ってもらったのではないだろうか」位の推測しかできません。 

     ◎「峯源次郎日暦」の文献紹介は、下記のHPサイトで参照してください。「相良知安HP」のトップ画面から「史料・史跡集」→「参考文献」で検索してください。 

【詳しくはこちら→→sagarachian.jp/main/30.html「参考文献」ページ)】                                                                                                  ◎「峯源次郎」の人物紹介は、下記のHPサイトで参照してください。「相良知安HP」のトップ画面から「相良知安年表」→「ゆかりの人物」で検索してください。 

【詳しくはこちら→→sagarachian.jp/main/28.html(「ゆかりの人物」ページ】 

     ※現在の浅草寺(雷門)界隈の賑わい 

石龍子(※男性です)とは、当時相者として有名でした。中山茂春氏の 「石龍子と相学提要」(『日本医史学雑誌』第55巻第2号・第3号掲載)によれば、石家は正徳4(1714)年に初代石龍子が江戸芝三島町(現在の港区芝大門1丁目)に居を構え、医業の傍ら観相学を始める。第3代石龍子(相栄)の時代に観相学が、医学範疇か陰陽学の範疇かで裁判が行われた。安永8(1779)年9月12日に始まり安永9年3月23日に判決があり、その結果は、町医者石龍子お構いなし、訴えるた吉村権頭(土御門家の関東総奉行)は押籠30日、役儀取り離し、流浪とあり、観相学は医学の範疇と認められ勝訴であった。その後石家は、代々石龍子を名乗り観相学の家として昭和時代まで続いた。

◎【相良知安の墨色一の字占い】 ※占いの一種として、相談者が「一」の字を紙に書いて、占者が吉兆を判断する「墨色(すみいろ)一の字占い」というものがありました。 源次郎の二男峰直次郎が、父親から聞いた話しとして「相良知安」と題した草稿が峯家に残されています。その中に占いの一種で、相談者が一の字を紙にかいて書いて吉兆を判断する「墨色(すみいろ)一の字占い」のことを書いていますので、その部分を紹介します。              「相良氏が浪人して居られた当時、東京にて字に身の上を占う者が居ったと云う。相良氏は自ら紙に一の字を書き、その判断者に見せて運命を聞いてみよとのことであったそうである。父(※峯源次郎)は其の一の字を書いた紙を持って占者の処に行ったところ、其占者は未だ何も聞かぬ先に一の字を見たばかりで、此人は今やりそこなって浪人して居ますねと云ったそうである。       それから言を継いで然し、此人は又すぐ世に出て顕職に就く人だと云ったが、又言を継いで然しです此人は又久しからずして止むめなければならぬようになる人ですねと云うたとのこと。相良氏の身の上は、全く此の占者の言の如くその後顕職に就任せられたけれども、間もなく止められたと云うのである。字の占と云うものは不思議に当たるものだと父(※峯源次郎)が物語ったことがある。」

※峯直次郎(1868~1938)とは、峯源次郎の二男で東京医学専門学校済生学舎に学び、明治21(1888)年医術開業前期試験に、同23年に医術開業後後期試験に及第し医術開業免状を取得。同28(1895)年に陸軍軍医学校に入学、卒業後日清日露の両戦役に従軍、金沢衛戌病院長等歴任し、第六師団軍医部長を最後に退役、大正7(1918)年帰郷、父親の「峯医院」に戻った。父親の峯源次郎から聞き取った「相良知安」、「江藤暗殺に遭ふ」などの逸話を書き残している。昭和13(1938)年3月7日没、享年71。

「直次郎は肝心の墨色占者の名前を書いていません。相良知安の墨色一字占いをしたのは、一体誰だったのでしょうか。山口千枝でしょうか。石龍子だったのでしょうか。

 ※現在の「東京港区芝大門1丁目(芝大門附近)」

 3.『地獄物語』(「名古屋大学附属図書館」所蔵)の紹介と江戸で有名な占い師(山口千枝・石龍子ら) 

 本書は、安政の大獄(1858~1859年)で禁固になった幕末の志士・世古格太郎(延世)が、自己の悲惨な獄中生活や囚人等から伝え聞きした珍談奇談を書き綴った随筆本で、「「名古屋大学附属図書館」に所蔵されています。本書はまた、江戸時代の刑法と刑罰の実態を知る貴重な史料でもあります。            

本書の存在と検索について、所蔵元の同大学附属図書館の直江千寿子様へお尋ねしたところ、懇切丁寧に今回の史料をご教示頂いたところです。『地獄物語』の著者世古格太郎は、江戸時代の有名な占い師(山口千枝・石龍子・赤龍子など)の評判についても記述しています。 多久島澄子様の記述には、{安政6(1859)年、江戸における占い師ナンバ-ワンは、浅草の山口千枝、ナンバ-ツ-が芝神明前の白龍子であると獄中の修験者から聞き出しています。山口千枝は墨色占いが得意であると言っています。 中山氏の論考から多久島澄子様が作成した石龍子の略系図です。

初代石龍子(医業の傍ら観相学を始める:正徳4(1714)年→2代石龍子(相明)医師、観相学者→3代石龍子(相栄)の時、観相学は医学の範疇と裁判勝訴:安永9(1800)年→4代石龍子、医師、観相学者→5代石龍子(観相学者、性格学の始祖)は久留米藩医中山家の分家、儒学者中山泰橘の二男中山時三郎(文久2年~昭和2年:享年65。)妻は4代の二女。→6代石龍子、観相学者。静岡県田方郡下狩野村 仁科嘉七の二男嘉六。明治13年生:昭和37年没享年82。

4.おわりに                                                                               相良知安・峯源次郎・世古格太郎・山口千枝・石龍子の出来事を時系列に並べれば、

①安政6(1859)年秋、世古格太郎の墨色占いを山口千枝が行う。

②文久元(1861)年相良弘庵(知安)、山口千枝を訪ね色々身の上を占ってもらう。

③明治3(1870)年4月11日、峯源次郎が山口千枝を訪ね占ってもらう。

④明治4(1871)年12月28日、峯源次郎は相良知安のために石龍子へ。          以上となります。

  相良知安と世古格太郎は、山口千枝の占いがよく当ったことを記録に残しました。峯源次郎は、師相良知安の代理で訪れた墨色占師が、知安先生の将来を如何によく当てたかということを息子の直次郎に話しています。しかしながら、源次郎自身が山口千枝に占って貰ったことを直次郎は書いていません。   源次郎が話さなかったのか、或は直次郎が故意に書き残さなかったのか、それは不明です。                                      学問熱心が共通する相良知安、峯源次郎、世古格太郎の三人は、江戸一番と評判の相者、山口千枝の最盛期に占って貰ったと言えるのではないでしょうか。

  最後に今回のHP執筆にあたり、直江千寿子様から多大なご協力を頂き、有難く感謝して御礼申し上げます。

 

  【出典:参考文献】

  ①「相良知安翁懐旧譚」【相良知安翁口述:『医海時報』連載:明治37 (1904) 年】 ※本文献は、本HPに公開しています。

  ②「我が国医制の創始者 相良知安先生」【『佐賀郷友』第二年第五号:昭和5(1930)年】

  ③『東京大学医学部百年史』【小川鼎三代表編集:東大出版会発行:昭和42(1967)年】   

  ④『相良知安』(鍵山栄著:日本古医学資料センター発行:昭和48(1973)年:絶版)

   ⑤おいが異風かんた-相良知安-」【『西日本新聞』15回連載:{平成14(2002)年6月17日~9月30日}:同社文化部長竹原元凱氏執筆】

  ⑥世古格太郎「地獄物語」【『名古屋大学附属図書館平成18(2006)年春季特別展「地獄物語」の世界-江戸時代の法と刑罰-』図録ガイド】 

  ⑦中山茂春【「石龍子と相学提要」(『日本医史学雑誌』第55巻第2号、同第3号:平成21(2009)年】  

   ⑧多久島澄子翻刻・解題「峯源次郎日暦」【青木歳幸編『西南諸藩医学教育の研究』:平成24~26年度科研費報告書所収。平成27(2015 )年】

     ⑨多久島澄子「相良知安と峯源次郎を占った山口千枝・石龍子」【『佐賀医学史研究会会報』第150号・令和3(2021)年6月】 

 

 

 

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