明治2年(1869年)明治政府は、先進的な医学校の創設を相良知安に任命する。 弘庵は知安の旧称。 |
ドイツ医学の優秀性と先進性を確信した相良知安の自筆覚書。 |
相良知安は、ドイツ医学の優秀性に着眼し、我が国医学制度をドイツに求めた。これは、明治7年公布された「医制」(七十六ケ条)の草案である。 明治5年、知安が文部省初代医務局長時代に起草し、ほぼ原案どおり公布された。 |
明治3年、知安は持論の建白書を持参し、廟堂へ提出しようと大学東校を出た時、部下の不正事件に連座した理由で、弾正台に拘留された。 知安は、「医とは元来病を治す術であるが、今日日新の医学はこれだけでなく、健康を増進しさらに疾病予防に努め、寿命の延長を図るべきである。だから医の名称を改めて、医務を司宰する官庁を設置し、護健使(クスシ)として、之に学校を附属させるべき」との主旨を主張した。 この思想は、明治時代には壮大で飛躍的であったが、すでに予防医学の萌芽がみられる。 |
相良知安の功績を顕彰するため、昭和10年全国の医師等の寄附により、東大医学部池之端門側に建立された。 |
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相良知安の生涯と業績の説明板。 |
戒名は「鐵心院覚道知安居士」。 |
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