相良知安関係年表

相良知安関係年表

年号 西暦
(年齢)
出来事
天 保 5年 1834 <知安・日本医学関係>
佐賀藩、八幡小路に「医学館・医学寮」を創設。
 

7年

1836(1)

<知安・日本医学関係>
相良弘庵、2月16日に佐賀城下八戸町北側で生まれる。  ※「知安」と名乗る前は「弘庵」名でした。

  8年 1837(2)

<知安・日本医学関係>
弘庵、佐賀城下八戸町南側に移る。

  12年 1841(6)

<知安・日本医学関係>
弟の相良元貞が生まれる。

  13年 1842(7)

<知安・日本医学関係>
佐賀城下材木町四丁目東側に移る。

  14年

1843(8)

<知安・日本医学関係>
弘庵、痘ヲ病む。藩校弘道館(養蒙舎)へ入学。
嘉 永 元年 1848(13) <知安・日本医学関係>
蘭館医モーニッケによって種痘苗と聴診器がもたらされる。
  2年 1849(14) <知安・日本医学関係>
直正の命により藩医大石良英が、世子淳一郎に種痘を施し善感した。
  3年 1850(15)

佐賀藩「文武課業法」を制定。              

弘庵、支家の相良春榮(福好)家の養子となる。

  4年 1851(16)

<知安・日本医学関係>

佐賀藩「医業免札姓名制度」を開始。弘庵、藩校「弘道館」(大学部)入学。蘭学寮設置される。
養父相良春榮(福好)が病死し弘庵が跡目相続。

医学館が医学寮となり蘭学寮を併設。       
佐賀藩、医師の世録を半減とする。

安 政 元年 1854(19) <知安・日本医学関係>
弘庵、蘭学寮入寮。
<一般情勢>
日米和親条約締結
  2年 1855(20) <一般情勢>
佐賀藩から長崎の官軍伝習所に多数の生徒を派遣。
  3年 1856(21) <知安・日本医学関係>
弘庵、医学寮入校。生徒長となり教官の補助を務める。
  4年 1857(22) <知安・日本医学関係>
幕府の要請により、ポンペ長崎に来る。
  5年 1858(23) <知安・日本医学関係>
伊東玄朴幕府奥医師に任じられる。
玄朴等蘭方医江戸お玉ケ池に種痘所設立。
医学寮を佐賀城下水ケ江に移転し、藩主直正が「好生館」と命名し統一する。弘庵と福地文安は、抜擢されて好生館教導方備欠に登用される。
<一般情勢>
日米修好通商条約締結・安政の大獄
<世界医学>
ウィルヒョウ:細胞病理学説を発表(ドイツ)
万 延 元年 1860(25)
<知安・日本医学関係>
弘庵結婚(妻多美)。種痘所、幕府直轄となる。
<世界医学>
ゼンメルワイス:産褥熱の原因解明(オーストリア)
文 久 元年 1861(26) <知安・日本医学関係>
弘庵、江戸及び下総「佐倉順天堂塾」で蘭学を学ぶ。
長男(安道)誕生。種痘所を西洋医学所と改める。
長崎養生所落成。
<一般情勢>
直正隠居して閑叟と号する。
文 久 2年 1862(27) <知安・日本医学関係>
蘭医ボードイン、長崎出島に来日着任。
<一般情勢>
寺田屋事件・生麦事件が起こる。蕃書調所を洋書調所に改称。
  3年 1863(28)

<知安・日本医学関係>
弘庵帰藩し、藩命により長崎養生所(後の精得館)にて蘭医ボードインより蘭医学を学ぶ。
西洋医学所を医学所と改める。

元 治

元年

1864(29)

<知安・日本医学関係>
弘庵の実父長美(六世柳庵)没。

慶 応 元年 1865(30)

<知安・日本医学関係〉

 長崎養生所を「精得館」と改め、弘庵館長となる。

  3年 1867(32)

<知安・日本医学関係>

佐賀藩の英学校蕃学所(翌年「致遠館」と改称)を長崎に開設。弘庵入校しフルベッキに学ぶ。   弘庵は、蘭医ボードインよりオランダ(ユトレヒト大学)留学を勧められるが、実父の病気を理由に固辞する。

  4年 1868(33)

<知安・日本医学関係>
弘庵帰藩し、好生館「教導方差次」となる。「好生館」より「医業全科免状」を受ける。鍋島直正公の侍医となる。長女(コト)誕生。直正公にお供し上洛する。

<一般情勢>
戊辰戦争 明治維新 江戸を東京と改称(7月)、明治改元(9月)、 天皇東京へ行幸(10月)

明 治 2年 1869(34) <知安・日本医学関係>
弘庵、新政府より「医学校取調御用掛」(1月)を仰付けらる。「徴士大学権判事」(5月)から「任大学少丞」(7月18日)及び「任権大丞」・「任大学権大丞」(10月10日)となる。「叙従六位(10月2日)。
知安等の尽力により医学の範をドイツにとる方針を、太政官が決定。医学校を大学東校と改める

<一般情勢>
佐賀藩庁設置
明 治 3年 1870(35) <知安・日本医学関係>
知安弾正台に捕らわれる(9月13日に身柄拘束・取り調べ後、11月27日入獄か)。ボードイン、伊東玄朴、鍋島閑叟を診察する。叙正六位(10月)。
  4年 1871(36) <知安・日本医学関係>
知安冤罪により釈放(11月27日)。大学東校にドイツ人教師着任。「位記被差止候事」(11月14日)。
大学東校を東校と改める。
鍋島閑叟、伊東玄朴没。
<一般情勢>
廃藩置県、佐賀県庁設置
  5年 1872(37) <知安・日本医学関係>
東校を第一大学区医学校と改め、「文部五等出仕」(10月8日)。知安「第一大学区医学校学長被仰付」(10月8日)けらる。「大学校設立掛被仰付」(11月28日)。
好生館が「県立病院好生館」となる。
<一般情勢>
学制発布
  6年 1873(38)

<知安・日本医学関係>
知安、「本省出仕兼築造局長被仰付候事但医学校学長如故」(文部省)=(3月19日)、「文部省医務局長兼被仰付候事」けらる(3月24日)。知安『医制略則(85ヶ条)』起草。「第一大学区医学校校長」罷免(6月13日)。 「医務局長兼築造局長」被免(6月13日)。「補文部四等出仕」(7月24日)。「叙従五位」(10月)。

  7年 1874(39)

<知安・日本医学関係>
知安起草による『医制』(76ヶ条)が、二代目医務局長長与専斉により公布。
第一大学区医学校を東京医学校と改める。
知安、「免出仕但位記返上之事」(9月30日)。 「奉職満二年以上ニ付、為其賞目録之通被下候事 目録金弐壱百五拾円」(文部省)=10月4日

実兄の相良安定没(2月:47歳)。
<一般情勢>
佐賀の役起こる。

  8年 1875(40) <知安・日本医学関係>
知安、「本官被免位記返上被仰付」(10月)。       弟の相良元貞(ドイツ医学留学から失意のうち6月に帰国後)が病没(10月16日:35歳)。
佐賀病院に医学所を設置。
  10年 1877(42) <知安・日本医学関係>
佐賀県下にコレラ流行。
東京医学校を東京大学医学部と改める。
<一般情勢>
西南の役起こる。
佐野常民「博愛社」創設。
  11年 1878(43) <世界医学>
コッホ:破傷風菌発見(ドイツ)
  12年 1879(44) <知安・日本医学関係>
佐賀県下にコレラ大流行
<世界医学>
ナイセル:淋菌発見(ドイツ)
  13年 1880(45) <世界医学>
パスツール:ワクチン免疫に成功。
ラヴェラン:マラリア病原体発見。
ガフキー:チフス菌発見(ドイツ)
明 治 15年 1882(47) <一般情勢>
東京専門学校設立
<世界医学>
コッホ:赤痢菌発見(ドイツ)
明 治 16年 1883(48) <一般情勢>
長崎県より分離独立し、県名再び佐賀県となる。
<世界医学>
フェ-ルアイゼン:連鎖状球菌発見
クレプス:ジフテリア菌を発見(ドイツ)
  17年 1884(49) <世界医学>
フレンケル、肺炎菌発見(ドイツ)
  18年 1885(50) <知安・日本医学関係>
知安、文部省御用掛(「編輯局」勤務)を仰付けらる。(7月9日)
非職仰付けらる。(12月28日)
<一般情勢>
佐賀県下に大暴風雨、疫病起こる。
<世界医学>
パスツール:狂犬病予防に成功(フランス)
  20年 1887(52) <世界医学>
ワイクセルバウム:髄膜炎菌発見(ドイツ)
  22年 1889(54) <知安・日本医学関係>
北里柴三郎破傷風菌の純粋培養に成功
<一般情勢>
大日本帝国憲法発布
  23年 1890(55) <知安・日本医学関係>
北里柴三郎血清療法完成。
佐賀県下にコレラ、赤痢大流行。
<世界医学>
コッホ:ツベルクリン製造(ドイツ)
  27年 1894(59) <知安・日本医学関係>
北里柴三郎ペスト菌発見。
<一般情勢>
日清戦争
  28年 1895(60) <世界医学>
レントゲン:X線発見(ドイツ)
  29年 1896(61) <知安・日本医学関係>
佐賀県立病院好生館発足
  30年 1897(62) <知安・日本医学関係>
志賀潔、赤痢菌発見
  31年 1898(63) <世界医学>
キューリー夫妻:ラジウムを発見(フランス)
  32年 1899(64) <知安・日本医学関係>
佐賀県下に赤痢、チフス、ヂフテリア、ペスト大流行。
  33年 1900(65) <知安・日本医学関係>
知安、叙「勳五等雙光旭日章」を授けられる(3月24日)。
  35年 1902(67) <知安・日本医学関係>
佐賀県下にコレラ大流行
<一般情勢>
日英同盟締結
<世界医学>
シャウデン、ホフマン:梅毒スピロヘータ発見(ドイツ)
  38年 1905(70) <知安・日本医学関係>
佐賀県下に赤痢、ジフテリア大流行。

明治          

39年    

1906(71)

<知安・日本医学関係>
知安没(6月10日)、「叙正五位」(6月11日)。「本邦諸制度創始ニ当リ群議ヲ拝シテ医学ノ基礎ヲ定メ其功労尠ナカラス、仍テ祭祀料下賜候事 文部省祭祀料一封金 壱百円也」(6月12日)。

  医師法及び歯科医師法公布
<世界医学>
ワッセルマン:梅毒血清反応考案(ドイツ)

昭 和 10年

1935

<知安・日本医学関係>
「相良知安先生記念碑」(東大医学部池之端門側)が建立された。 記念碑は平成19(2007)年、東大医学部附属病院入院棟Aの玄関前の緑の一角へ移転された(東大医学部・附属病院創立150周年記念事業として)。

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