• トップ
  • 顕彰活動
  • 「喫茶古」(きっさこ)が「城雲院」(相良知安墓所)にて、H31年3月に開催され、寺宝の展示や相良知安資料・パネルの展示・解説がありました。

「喫茶古」(きっさこ)が「城雲院」(相良知安墓所)にて、H31年3月に開催され、寺宝の展示や相良知安資料・パネルの展示・解説がありました。

 「喫茶古」(きっさこ)とは、仏教の禅の言葉で、御茶を飲みながら楽しく語り合うとの意味です。

  佐賀藩医相良知安の墓所である「城雲院」(佐賀市唐人2丁目)にて、「第3回喫茶古」(平成31年3月2日~3日)が開催され、「城雲院」が所蔵する寺宝の「涅槃図」・「誕生図」や書家の洪浩然の書、書家の中林悟竹の書・画を展示し、一般公開されました。

同時に相良知安の資料・パネルの展示と解説を、筆者が行いましたので、報告します。

 まず「城雲院」を紹介します。禅宗の「曹洞宗」(開祖は道元禅師)であり、曹洞宗由緒によれば、嘉永六(1629)年に建立されました。また鍋島藩とは因縁深い寺院です。現住職は24代目です。

門前には、昭和41年に佐賀市にて開催された「第66回九州医師会医学会」の記念事業として、佐賀県医師会により「相良知安先生墓所」の石柱と、「相良知安略歴」の案内板が設置されています。

                                 ※「城雲院」正門(佐賀市唐人2丁目)

 

  ※「城雲院」門前の「相良知安先生墓所」石碑と「相良知安略歴」案内板

   ※「涅槃図」(左図)と「誕生図」(右図)    (城雲院所蔵)

 

城雲院所蔵の寺宝である「誕生図」と「涅槃図」は、約350年前の仏画ですが、江戸時代後期の文久年間(1861-1863)に、再表装・修復され今日に至っていました。平成23(2011)年4月に、城雲院檀信徒一同の寄進により、両方が150年振りに再々表装されたものです。

 

  写真右の「誕生図」(図原寸140✕212cm)は、仏典によると、お釈迦様は、花々の咲き匂うルンビニーの園で、母マーヤ夫人が無憂樹の枝に手を差し伸べられた時、その右脇から誕生された。そしてその直後、七歩歩いて天と地を指して「天上天下唯我独尊」と唱えられる。この時、天の神々は花びらを散らし、八大竜王は甘露の雨を降らせて祝福した、とあります。この誕生図には、その一連の様子が物語りの如く描かれています。なお「誕生図」の所蔵は、稀少であります。全国的にも珍しく貴重なものです。

 

写真左の「涅槃図」(図原寸210✕146cm)は、2500年前、お釈迦様がクシナガラにある沙羅双樹のもとで、80年の生涯を終えられた時の仏画です。お釈迦様は、北を枕に右脇を下にして横臥し、周囲には仏弟子をはじめ、鬼神や動物たち、更には森羅万象ことごとくが、お釈迦様の死を嘆き悲しんでいる様子が、描かれています。しかしお釈迦様は、最後の説法で「諸行無常」を説かれ、全ての者たちに「悲しむなかれ、精進を怠らぬように」と諭し、何の憂いもない静かなお姿で涅槃の境地に至られます。

※洪浩然の書「五言律詩四首屏風」(右側) 江戸時代前期 6曲1双(城雲院所蔵)

 洪浩然(天正10 (1582)年~ 明暦3(1657)年)は、豊臣秀吉による大陸侵攻(文禄・慶長の役/1529-98年)に際して、佐賀へ連れてこられた被擄人(ひりょにん)の一人です。書に秀でていた洪浩然は、鍋島直茂(藩祖)、鍋島勝茂(初代藩主)に右筆(ゆうひつ:書記官)として仕えたとされています。また、能書家としても知られており、その作品が県内外に伝わっています。明暦3(1657)年3月、主君勝茂が江戸で死去。その報を受けた浩然は、4月8日に阿弥陀寺(佐賀市木原)で、追腹を切りました。その際「 忍 忍則ち心の宝、忍ばざるは身のわざわい」と認め、子ども達への遺訓としています。洪浩然の書は、崩れの無い謹直な筆致が特徴的です。特に楷書の作品では、起筆やオレ、トメ、ハネなどを強調した「こぶ」が見られることから、「こぶ浩然」とも呼ばれています。現在も県内の旧家や寺院に作品が伝わっていますが、他にも県内外の寺院の扁額や鳥居銘も彼の書を見ることが出来ます。佐賀県における被擄人として洪浩然のほかに、有田焼を創始したと伝わる金ヶ江三兵衛(李参平)や、武雄で陶工として活動した深海宗伝・百婆仙、鍋島更紗を創始したと伝わる九山道清などが知られています。

    ※書聖「中林悟竹」の書と画 (城雲院所蔵)

  中林悟竹(文政10年(1827)年~大正3 (1913)年)は、小城藩士中林経緯の長男として現在の小城市小城町に生まれる。藩校興譲館に学び草場佩川に師事。明治維新後、長崎に出向き、当時の中国最新の書法に着眼し、56才で北京に渡り、1年8ケ月の研鑽に励んだ。帰国後、副島種臣、松田正久等の斡旋により、東京銀座「伊勢幸」に奇寓した。伊勢幸には28年間も居住し、その間全国を遍歴し、多くの名作を残した。65才の時には、明治天皇に王羲之の十七帖の臨書を奉献し、羽二重の御衣を賜る。72才、富士山頂に「鎮國之山」銅碑、82才で郷里の小城市三日月町に「三日月堂(悟竹観音堂)を建立した。大正2(1913)年、 87才で没。悟竹は、「明治の三筆」(中林悟竹・日下部鳴鶴・巌谷一六)の一人として、日本近代書道の基礎を築き、あらゆる書体で創造性に富む品格の高い作品を書き、書論も残すなど名実共に東洋一の書家として評価は高い。 

 

 

    ※「第3回喫茶古」(城雲院)での「相良知安」展示コーナー

 「喫茶古」は、今年で3年目を迎えて最高の訪問客となりました。檀家様・信徒様ばかりで無く、校区民や県内・県外の皆様が見学に来て頂きました。開催前には、地元の佐賀新聞誌上で、告知板に開催案内文が掲載されたのも、訪問客の見学に効果的でした。佐賀市では、「さが城下ひなまつり」行事が、市内一円で開催されていますので、「喫茶古」も協賛されて展示・公開されました。

 筆者は、住職様の依頼により初回より、「相良知安」資料展示の解説を喜んで行いました。下記の画像の通りパネルや展示資料を掲示し、訪問客の皆様へ丁寧に、相良知安の人物像、略歴、功績などを解説しました。嬉しいのは皆様から質問を頂けるので、皆様の反応が直に判るのです。リピーターも多く訪問され嬉しい限りで、盛会となった展示でした。

「喫茶古」の開催は、住職のお考えで3回目の今年で、一応最後となります。また数年後に再開したいとの意向です。

       ※「相良知安」展示の解説をする筆者

   ※相良知安墓所(城雲院) 「喫茶古」開催中は、目印として旗を掲げました。

 

 

Copyright (C)Sample Inc. All Right reserved.