ゆかりの人物

鍋島直正(1814~1871年)

鍋島直正閑叟(かんそう)の名で知られている佐賀藩十代の藩主。父は斉直。江戸の藩邸で生まれ、十七歳で襲封、藩政改革を積極的に推進した名君。
勤倹節約を断行し、財政の基礎を確立すると共に、天下に率先して西洋文明を取り入れ、軍用金を備えて長崎砲台の築造を始め、反射炉の建設、鉄砲兵器の製造、海軍学校の創設、艦船の購入、西洋医術の研究、特に種痘の普及、藩校弘道館の充実など流動期の内外の形勢に応じた政策を実施し、明治二年薩摩長州土佐の三藩と共に封土を奉還した。
蝦夷開拓使長官、大納言となる。
明治四年病死。墓所は、東京麻布の賢崇寺と佐賀市の春日山墓所に眠る。

(「佐賀幕末明治500人」) 

江藤新平(1834~1874年)

江藤新平司法卿。明治七年佐賀の役に際し処刑された。佐賀郡八戸村に生まれる。幼名は又蔵で成人して胤雄と名乗り、号は南白という。相良知安と竹馬の友で弘道館で共に学ぶ。
新平は貧苦に耐えて成長し、藩校弘道館で儒学者の枝吉神陽について学ぶ。文久二年脱藩し京都に上り、公卿姉小路公知に皇室復興につき上書し、帰郷し永蟄居を命じられた。
慶応三年蟄居を許され、明治元年正士となり禄二十石を給与された。
江戸に出て勤王の士と接近し国事に奔走した。明治二年佐賀藩の権大参事に任じられ軍制、藩政、民政改革に思いきった手腕を振るった。ことに江戸府判事時代の江戸遷都論、中弁時代の近代的官制草案、文部大輔時代の文部省創立、その他司法権の独立など諸外国の法制を研究採用した卓見は、驚異に値する。
明治四年司法卿となる。同七年、民撰議院設立の建議を左院に上程。彼は、征韓論の立場をとり野に下がったが、たまたま佐賀の役に際し征韓党の首領として戦って敗れ、佐賀城内で処刑された。明治二十二年刑名を除かれ、大正五年正四位を追贈された。

(「佐賀幕末明治500人」)

大隈重信(1836~1922年)

大隈重信早稲田大学創立者。佐賀城下水ケ江に生まれる。
弘道館に入り、朱子学を学び、葉隠主義の訓育を受けた。成長するにつれ、学風を喜ばず義祭同盟に加わり、安政二年退学を命ぜられた。蘭学寮から長崎の藩校「致遠館」に入学し、フルベッキから英語を学んだ。
明治となり、参議、大蔵卿を歴任、副島種臣と協力して版籍奉還を実現し、正貨鋳造を開始し造幣局の基礎を築く。京阪(京都―神戸)の鉄道を完成し、会計検査院を創設した。
明治十四年政変に際し、官を辞任し立憲改進党を組織し、立憲主義を唱道した。
早稲田専門学校を創設し人材を育成した。同二十一年外務大臣として条約改正の難局に当たり、刺客に爆弾を投げられ片足を失ったが、まもなく健康を回復し再度外務大臣となる。明治三十一年と大正三年の二度内閣を組織し、総理大臣に就任した。雄弁家として政治のみならず外交、教育、実業に活躍し名声を博した。大正五年大勲位に叙せられる。
大正十一年逝去、国民葬執行。墓所は、佐賀市の竜泰寺と東京都の護国寺にある。

(「佐賀幕末明治500人」)

副島種臣(1828~1905年)

副島種臣外務卿、書家としても有名。父は藩校弘道館教授枝吉南濠で、長兄は勤王家枝吉神陽である。副島利忠の養子となり、蒼海と号した。藩命で京都に留学し皇学を研究。
長崎の佐賀藩英語学校「致遠館」で、アメリカ人宣教師のフルベッキから、英学を学ぶ。相良知安も、致遠館でフルベッキから学んだ門下生である。
明治元年、参与職制度事務局判事に任じ、東北征討に従事、次いで参与職、外務省御用専務を経て外務卿に就任。在職中は、樺太境界についてロシアと談判、ペルー国船の清国人苦人解放に尽力し、国際裁判、日清修好条約批准など列国との外交談判に、厳正で公明堂々たるものがあった。
明治六年、征韓論が起こり辞職、明治十七年伯爵を授けられた。
明治二十五年、松方内閣の時外務大臣に親任されたが、まもなく辞任し枢密顧問官に任じられた。
書家としては、中林梧竹と共に近代書の源流と言われている。

(「佐賀幕末明治500人」)

佐藤泰然(1804~1872年)

伊藤泰然佐倉順天堂の創始者。
医学を志し、蘭医足立長雋(あだちちょうしゅん)の門に入り、さらに高野長英に就く。その後長崎に遊学、蘭医J・ニューマンに医学を学ぶ。
順天堂はわが国最初の私立病院として知られ、又当時泰然は紀伊の華岡青洲とともに外科の二大家と称せられた。順天堂からは二代順天堂主である佐藤尚中を始め、林洞海、関寛斎、佐々木東洋など、多くの俊才を輩出している。

 

 

佐藤尚中(たかなか)(1827~1882年)

佐藤尚中幕末・明治の医師(外科医)。泰然の養子。東京順天堂の創始者。
藩命により長崎に遊学し、ポンペについてさらに外科を中心に学んだ。
佐倉に戻り済衆精舎を設け、七科にわたる教授を行い病舎で診療にも当たった。又藩医として医制を改革した。
明治2年、上京して東京大学医学部の前身である大学東校を主宰し、大学博士、さらに大典医・大学大丞と医学界の最高の地位に就いた。明治5年、大学を辞職してからは佐倉とは別に東京順天堂を開き診療とともに医師の教育に当たった。

 

松本良順(1832~1907年)

松本良順佐倉藩佐藤泰然の二男として生まれ、幼くして幕医松本良甫の養子となる。
1849年、幕府の医学館試験に合格し、1855年幕府出仕となる。
幕命により長崎に留学。ポンペに就いて学ぶ。
死刑囚に対し、長崎での初めての解剖に立ち会う。
1860年、ロシア兵の長崎寄港に対し、梅毒検査を実施。
1861年、わが国初の公立病院「小島病院(のちに精得館と改称)」を建てポンペを院長、自らは副院長となる。
1863年、江戸に帰り緒方洪庵の後を受けて医学所頭取となる。
1873年、初代軍医総監。男爵。軍陣医学のみならず通俗衛生にも明るく、牛乳の使用を教え、海水浴の効用を説いた。

 

島本良順 (~1848年)

佐賀藩蘭学の開祖。長崎に出て蘭学を学び、寛政年間ごろ佐賀蓮池町で蘭法医を開業する傍ら、門弟を集めて蘭学を教えた。
大坂適塾の緒方洪庵とも親交を結び、医学は勿論、自然科学や数学までも教授したので次第に認められ、1818~30年ごろには入門者も増えた。
伊東玄朴、大場雪斉、山村良哲などの人材を発見し育成した。
1834年、佐賀十代藩主鍋島直正が医学寮を設立した時寮監に採用され、さらに蓮池藩侍医に抜擢された。

 伊東玄朴 (1800~1871年)

伊東玄朴神埼郡仁比山不動院の農家に生まれる。23歳で藩医島本良順に入門。翌年長崎に遊学し、シーボルトに入門。
1826年、江戸に出て蘭書を講じ、1828年医を開業。翌年佐賀藩士の伊東祐章の養子となり伊東玄朴と改名した。
1831年、鍋島直正に牛痘苗の取り寄せを献言、その接種に成功した。
1857年、同士50余名と図って種痘所を創設。のちの西洋医学所・東大医学部の基礎をつくった。
将軍家定の病の際に蘭医として初めて召され、戸塚静海・坪井信道と並んで蘭学三大家と呼ばれ弟子数百名を擁した。この塾である象先堂からは、著名な医者・学者・政治家を送り出している。
訳書の中で「医療正始」24巻は医者必携の書とされた。

 

フルベッキ Verbeck, Guido Herman Fridolin(1930~1898年) オランダ生まれ

フルベッキ1858年、アメリカ移住し、神学校で学び、1859年の卒業とともに宣教師となり、同年の11月7日長崎に来日。
長崎奉行の学校済美館、佐賀藩の学校致遠館で教え、明治政府の要職についた人々を育成した。とくに大隈重信・副島種臣らを指導した。
明治2年(1869年)、上京し明治政府の顧問格に迎えられ、政府の重要な施策に参画した。
大学南校の教頭となり、のち元老院顧問・華族学校講師となった。
明治10年(1877年)、致神学校設立につくして教授となった。また、後年、各地を旅行して流暢な日本語で説教した。
オランダに生まれて国籍なく、アメリカに学んで市民権を得ず。日本に永住し東京の葵町の自宅にて没した。

(明治人名辞典より)

ボードイン Bauduin, Antonius Franciscus(1820~1885年)オランダ生まれ

ボードインユトレヒトの陸軍群医学校教官の職にあったが、文久2年(1862年)に来日しポンペの後任として長崎で教えた。特に眼科にはすぐれていた。
慶応2年(1866年)、日本人留学生緒方惟準と共に帰国したが、明治元年(1868年)、再来日し大坂に設置された大坂に設置された大坂仮病院に勤めた。翌2年、大坂医学校教師となりわが国の医学教育に努めた。
5年任期満ちて帰国し、1885年オランダのハーグにて没した。

(明治維新人名事典より)

 

 

ウィリス Wills, Willam(1837~1894年) イギリス(アイルランド)生まれ

ウィリス駐日英国公使館付医官として来日。
生麦事件、薩英戦争、鳥羽・伏見の戦い、北越・会津戦争などで外科手術の手腕をふるい負傷者の治療にあたった。
明治2年(1869年)、医学教師に任じられたが、ドイツ医学採用により退職。のち西郷隆盛の斡旋もあり鹿児島医学校長兼病院長として赴任。
公使館員サトウと親交。鹿児島大学附属病院前庭に記念碑。著書に『英国公使館員の維新戦争見聞記』

(幕末維新人名事典より)

 

ベルツ(1849~1913年)

ベルツドイツ人。ライプチヒ大学で内科を専攻。
明治9年(1876年)、東京医学校教師として来日し、生理学、内科産婦人科を教授した。
明治23年(1890年)、明治天皇の侍医となる。
滞在が23年に及び日本人女性(花)と結婚。また、脚気の研究や温泉の効用を発表したので、草津温泉に記念碑が建立された。
日本文化の研究も行い『ベルツ日記』を執筆。東京大学医学部構内に胸像がある。
1913年、ドイツにて死去。墓所は、シュトットガルトの「森の墓地」にある。

 

スクリバ (1848~1905年)

スクリバドイツ人。ハイデルベルグ大学及びベルリン大学で外科を専攻。
明治14年(1881年)、東京大学医学部教師として来日し、外科、皮膚科を教授した。
滞在が24年に及びベルツとならび東京帝国大学の双璧とされた。東京大学医学部構内にベルツとならんだ胸像がある。
1905年死去し、東京青山墓地に眠る。

 

 

ミュルレル(1824~1893年)

ミュルレルドイツ人。ベルリン大学で外科を専攻し卒業。
明治4年(1871年)、大学東校(のちに東京医学校)教師として来日し外科、眼科、婦人科を教授した。同年医学校教頭に就任。
東京大学医学部構内に胸像がある。

 

 

 

ポンペ Pompe van Meerrdervoort, Johannes Lijdius Catharinus (1829~1908年)

ポンぺベルギー生まれ。日本人に西洋医学をはじめて組織的に教授した人物。
安政4年(1857年)8月、幕府の要請に応じて派遣されたオランダ海軍教育派遣隊の一員として来日した。
従来ほとんど書物を通じて学びとられた西洋医学が、ポンペにより直接、松本良順ら幕府・諸藩の医者・医学生に教えられた。
彼は文久2年(1862年)9月まで5年間長崎に滞在し、人体解剖実習・コレラ予防等も行い、幕府に建議して、文久元年日本最初の西洋式病院である長崎養生所(のちの精得館)を設立した。帰国後、榎本武揚ら日本人留学生の指導監督にも当たった。
のちに駐ロシア公使となった榎本の外交顧問としてペテルブルグに在勤した。

(明治維新人名辞典より)


ホフマン(1837~1894年)

ホフマンドイツ人。ベルリン軍医学校で、内科学を専攻。
明治4年(1871年)、大学東校(のちに東京医学校)教師として来日し
内科学を教授した。
プロシアの学校制度を紹介し、「ホフマン建議」とし建議した。
 

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