• トップ
  • 顕彰活動
  • 物語劇「相良知安ものがたり」が郷土佐賀にて初上演されました!(報告)

物語劇「相良知安ものがたり」が郷土佐賀にて初上演されました!(報告)

 相良知安の生涯・功績に関し、寸劇(物語劇)「相良知安ものがたり」が郷土佐賀にて初上演されましたので紹介します!

  「ゆめさが大学(佐賀校)」(佐賀県佐賀市)の「第13回学校祭」が、令和7年2月13日(木)に佐賀市文化会館(中ホール)にて盛大に開催されました。「ゆめさが大学」とは、「シニアの学習・交流の機会を提供し、生きがいの高揚と社会活動の促進を図ると共に、以て活力とうるおいに満ちた長寿社会の実現に資する」趣旨で開設され、60歳以上の県民が対象です。 

                          「佐賀県長寿社会振興財団」が運営して平成3年に開校。現在「佐賀校」・「唐津校」・「鹿島校」・「鳥栖校」があり、2年間の受講(大学院は1年間で佐賀校と唐津校に設置)で、基礎課程・実践課程・大学院で講義を学ぶ。受講料は有料(年払い)で年間30日開講する。                  なお詳細な概要は、 「ゆめさが大学HP」アドレスへ→→https://sagachouju.jp/yumesaga/                

 【長崎留学時代の相良知安】

この度、「ゆめさが大学(佐賀校)」の「第13回学校祭」が開催され筆者は、「実践過程1組」(松永久光代表・クラス57名全員)による物語劇「相良知安ものがたり」が上演され観覧し、素晴らしい寸劇に感激しましたので紹介・報告致します。当日配布の「学校祭パンフ(式次第)」には、物語劇上演の動機・目的が記載されました。その内容は「佐賀の12賢人の一人といわれる相良知安のお墓は、「城雲院」(佐賀市唐人2丁目:佐賀銀行本店南側)にあります。東京医学校(現在の東京大学医学部)の初代校         

   【出演者全員の舞台挨拶】               長を歴任。日本にドイツ医学を導入し、日本の「医制」を整備された方です。「佐賀の8賢人」(注※「佐賀の8賢人とは、大隈重信・副島種臣・江藤新平・大木喬任・鍋島直正・佐野常民・島義勇・枝吉神陽の8名」を指す)の功績と遜色ない足跡を残された事に対し、地元での知名度は残念ながら十分とは言えません。墓石には、「鐵心院覚道知安居士」の戒名が刻まれています。その生き方は、まさに鐵の心で信じた道を生き抜かれた人生そのものと思われます」と述べています。リーダーの松永様より事前に物語劇上演のご案内を頂いておりましたので、当日は楽しみに観覧した次第です。

では当日の物語劇上演を紹介します。シナリオは松永様らクラスメンバーが担当し、衣装類は手持ちの衣装や手製衣装で対応しされました。知安の生涯を5場面に分けて、場面毎にそれぞれの配役が演じる内容です。そこで知安役は、場面毎に異なる配役となります。一人一役とし全員が出演し、当時の歴史的人物も史実通りのストーリーで進行しました。まず【オープニング場面】は、知安が明治2(1869)年、単身上京し明治政府に出仕してから、35年間も生活した明治期の東京が舞台です。明治39(1906)年6月知安は、インフルエンザにて71歳の生涯を貧乏長屋にて閉じました。

その際郷土佐賀から本妻多美が上京し、知安のお骨と天皇陛下より下賜された祭祀料百円を、知安と同居していた権妻(ごんさい)のお豊と初めて対面・面会し、知安のお骨と祭祀料を受け取る場面から始まりました。(※権妻とは、正妻ではない女性の意味です)。知安が上京してからお豊と知り合い同居し、知安を尊敬して「御前さま」と呼んで永年労苦を共にしてきました。この殊勝な明治女性のお豊に対し、多美は万感の想いが胸にこみ上げたのか、お豊の手をしっかり握りしめ、いつまでも二人で涙し           【本妻多美と権妻お豊の初対面】              ました。

次の【第Ⅰ場面】は、幕末の佐賀城下八戸村に出生した知安は、2歳上で竹馬の友である江藤又蔵(後の江藤新平)と近所同士の仲間でした。近所の寺院(「龍雲寺」と「長安寺」)の境内や、クリーク(堀)で鮒釣りして遊んだ仲間でした。 「又蔵とあそんでばかりで、共に学んだ「弘道館」では落第しないに程度に勉強した」と後年手記に述懐しています。二人の友情は、共に明治政府に出仕し上京してからも続きます。リズム感よくミュージカル仕上げで演じられた場面です。

 【知安と又蔵(江藤新平)の交遊】

更に【第Ⅱ場面】は、知安が佐倉「順天堂塾」での留学が終わり帰藩した文久3(1863)年に、今度は長崎留学(長崎養生所)が命ぜられる。師事した蘭医ボードインは、門下生へ質問する。「諸君の国は、今後何年経てばオランダや西洋諸国の医学に追いつく事が出来るか」と。門下生らは「100年の将来です」、「否、80年」、「60年」と続けて答える。これに対し知安は、「左様、吾輩は14~15年後には、必ず欧州の文明に拮抗すると存じます。否、せしめまする」と力強く答えその目は輝いていた。一座の【蘭医ボードインの質問と門下生】

者は知安の返答に唖然とし、唯一人ボードインは、知安の手を固く握りしめ、「好漢自重せよ。御身の意気を以てせば、さもあらん」と激励した。 

【第Ⅲ場面】は、明治政府内では、我が国へ西洋医学導入に関し、ドイツ医学派とイギリス医学派が対立していた。明治2(1869)年、「医学校取調御用掛」に岩佐純と共に任命された知安は、我が国へドイツ医学の導入を信念強く要人達を説得し奔走しました。政府内では、戊辰戦争で傷病兵の治療に活躍した英医ウイリスのイギリス医学、を採用する意見が大勢を占めていた。しかし廟議の席で知安は、堂々と信念強くドイツ医学を主張し、ウイリスのイギリス案は、任命された知安に何の相談もなく決 【ドイツ医学派とイギリス医学派】

めるのは、廟議の手続・決裁を経ない私事であると論破した。太政官はこの年ドイツ医学採用を決定し、知安が勝利する場面です。

 【第4場面】失脚した知安は、文部省の閑職となり生活していた。明治20年には一切の公職から外れ、医師を捨て易者を生業として、長屋で権妻と共に貧乏生活を送りました。知安の貧乏生活を知った医友の後藤新平・北里柴三郎や同郷の大隈重信らは、金品や物品などを知安に提供し支援しました。実は、郷土佐賀に残した妻子に対し、知安は上京後に毎月の給料のほとんどを仕送りし続けていたので、貧乏生活が続いたのです。明治33(1900)年、知安に吉報が届きます。17名の著名な医学者らからの【叙勲の栄誉に喜ぶ知安】

請願・尽力があり、叙勲(勲五等双光旭日章)を受章します。受章する際、礼服を持たない知安に代わり、親友の石黒忠悳博士(軍医総監)が代理で受領してくれました。さらに石黒博士は、知安を馬車に乗せ、共に都内の医人・政治家・友人など知安と交遊がある人達に叙勲を報告・御礼して廻ったのです。知安はこの栄誉に感激し「30年振りに盆と正月が一緒に来たようだ」と喜ぶ姿の場面です。                          

最後の「【第5場面】は、明治39(1906)年6月10日、知安はインフルエンザにて71歳の生涯を閉じます。死去に際し、天皇陛下より「我が国医学制度創設」の功績により、祭祀料(金百円)を賜る。その使者が貧乏長屋を訪問した際、住民らは何事かと驚き、易者の知安は実は偉い人だったと知る場面です。権妻お豊は、祭祀料を受け取ります。お豊は、佐賀から上京した本妻多美と初めて面会し、遺骨と祭祀料をそのまま手渡しました。知安が上京してから死去するまで同居していた殊勝な明治女性のお豊【祭祀料を持参した使者に驚く長屋住民】                                に対し、多美は万感の想いが胸にこみ上げたのか、お豊の手を固く握りしめ、いつまでも二人で涙しました。                 

筆者は感銘した本観劇を広く県民に周知したいと思い、地元の佐賀新聞に投稿し、「感激した知安の寸劇」との標題にて、令和7年2月24日に掲載(500字)されました。記事の反響は大きく、上演リーダーの大島様はじめ友人・知人・関係者から多くの声・讃辞を頂きましたので嬉しい限りです。 

最後に筆者が観覧した感想は、相良知安に関する物語劇が上演されるのは、初めてであり素晴らしいストーリー及びスライド上映と演出に感激しました。出演者はもちろん素人ばかりですが、役者一同の一生懸命の熱演を慰労し感謝して観覧記とします。  (了)

 

    

 

Copyright (C)Sample Inc. All Right reserved.