未公開史料(「借用證」)を公開します

◎未公開史料 〓相良(さがら)知安(ちあん)「借用證」〓を公開します。

 

 当家所蔵の史料のなかに相良知安「借用證」を保存しています。

 「相良知安」HPへこの史料を広く公開し、皆様からの見解を頂いて議論を起こし以て相良知安研究の一助としたいと思います。

  この借用證書の日付は、明治六年九月廿八日であります。この時期の知安は、明治六年六月十三日付けで、「第一大学区医学校校長罷免」と「文部省築造局長兼医務局長罷免」辞令が出された時期です。罷免されて失脚したのが六月ですからこの史料は九月です。

明治六年当時の「千円」の貨幣価値は、現在では「二千万円」位の価値が有ると思われます。   知安は、では一体何故に何の目的で借用したのでしょうか?

「政治資金のため」、「私塾を開設するため」、「弟の元貞がドイツ留学中であり生活費の支援」、「知安が大学東校の上野移転を建言した事との関係」等の諸説があります。

※深川亮蔵(ふかがわ りょうぞう)※天保3(1832)年~明治35(1902)年。

佐賀藩校弘道館より昌平黌に遊学、勤王運動に参加、幕府老中掘田備中守の殺害を企てる。

鍋島直正に助けられ家扶となる。版籍奉還後、旧士族の救済に尽力する。同郷の大隈重信、大木喬任など明治の元勲も亮蔵の世話になった。明治10(1877)年、大隈重信大蔵卿より「第三十国立銀行」設立認可を受けて頭取に就任する。

鍋島直大の教育係もつとめた。鍋島家奨学制度を設けさせ、後進の指導に当たった。

 

 

 

一金千圓也

 

右金正ニ借用申候処實正也返済之義者月々

 

壱分之利子相副毎月金百圓以上宛向十ケ月

 

間ニ無滞返納可仕候尤右為引當拙者所持

 

罷在候本郷弓町壱丁目拾壱番屋敷家作とも

 

地券御預申候間約定異変等有之節者何時

 

ニ而も御引渡可申候為後日屋敷書入金子借用

 

證書依而如件

 

            相良知安   

 

  明治六年九月廿八日        

 

    深川亮蔵殿

 

 

 

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