相良知安(さがら ちあん)の名前呼称の確定について(お知らせ)

相良知安の名前呼称について、近年の新史料(文献出版『ボイヤーの日記』)を知見(根拠)として、確定しました。

 相良知安の名前呼称について、今まで出版された『人名辞典』・『歴史人物事典』等では、【さがら「ちあん」】、【さがら「ともやす」】の2通りの呼称が、それぞれほぼ半数の割合で記載されてきました。また「明治維新150年」を迎えた本年2018年)は、佐賀県では「肥前さが幕末維新博」開催や、「モニュメント像」落成、各種エベント等が開催され、明治維新の歴史について、「相良知安」へも大きな関心と注目が集まっています。佐賀県を訪問された県外の皆様から多くの質問を受けるのは、「相良知安」の名前呼称(「ちあん」か「ともやす」のどちらですか)についてです。佐賀県内では、ほぼ「さがら ちあん」で統一された名前呼称となりました。そこで筆者は、皆様方の質問・疑問に対応すべく、史実に基づく新史料(知見)を根拠とした名前呼称を、公開したいと思いました。

 近年、新史料(文献『アメリカ海軍医ボイヤーの見た明治維新(1868-1869年の日本)』(布施田哲也翻訳:2016年11月第2版発行:デザインエッグ(株)発行:税込み2662円)の文献出版により、名前呼称(さがら ちあん)の確定的な根拠を得ましたので、お知らせします。同文献を、『ボイヤーの日記』と略称します(以下「本書」と記述します)。本書は、アメリカ海軍アジア艦隊の海軍医として、戊辰戦争前後の1868年(明治元年)~1869年(明治2年)にかけて日本を中心に勤務したサミュエル・ペールマン・ボイヤー(Samuel Pellman Boyer)が、日本滞在中に著した日記の日本語訳です。翻訳者は、布施田哲也氏(福井市在住の医師。日本医史学会会員)です。

『アメリカ海軍医ボイヤーの見た明治維新(1868-1869年の日本)』(第2版)

まず本書の概要について述べます。慶応4=明治元年(1868)当時、天保山沖に停泊していたアメリカ海軍「イロコイ号」の軍医であるボイヤーが、ジョセフ彦(1837-1897)と佐賀藩の依頼を受け、京都へ佐賀藩十代藩主鍋島直正の診察を行うため出向き、その結果直正は健康を回復しました。またボイヤーは京都に入京した最初のアメリカ人となりました。同年7月29日に京都に入ったボイヤーは、肥前藩邸(上長者町)にて直正の診察を行った。直正の臨床経過及び診察により、衰弱の原因は、大量の鉛投薬によるものとボイヤーは診断し、彼の治療により直正は健康を回復しました。同伴したジュセフ彦も、西洋医学の効果は、絶大であったことを記述している。またこの医療支援については、鍋島直正の診察記録である『診療御日記』(大阪市史編纂所収蔵)やアメリカ外交文書にても確認できる。また本書には、佐野常民、新宮涼民、相良知安など医学史で有名な医人との交流が描かれています。

本書では、医学に関して注目すべき記載は次の通り多岐にわたる。①航海中に死亡した中国人の水葬について、②アメリカ人として初めて入京し、重病の鍋島直正への医療支援、③佐賀藩医相良知安が、鍋島直正の病状経過報告のため、ボイヤーを2回訪問している、④開港地・海軍内における性病蔓延及び性病に関する医療の記載、⑤兵庫県立病院で医療監督の立場にあった元海軍医ヴェツダー医師(Alexander Madison Vedder)と兵庫で会っている。

本書は、ボイヤーが我が国歴史の転換点に立ち会った、貴重な記録・日記であります。そこで本書に記述された「相良知安」の下記の記事を引用し紹介します。 

                 記

「兵庫 1986年8月5日  前日早朝に京都の藩邸よりこちらに向かった肥前藩の藩医1人 サガラ デユダン(相良知安「相良弘庵」※訳者註48)と2名の役人が朝早く訪ねて来た。藩主は日に日に元気になられ、側近のだれもが、藩主の顔貌に大きな変化があることを認めた。~以下略~」。(本書86頁)

※訳者註48 「相良 知安 “Dr. Saga la Du Dan” (1868.8.5)  」

 肥前藩の藩医である相良知安を指す。相良知安(相良弘庵 1836-1906)は、肥前藩出身の蘭方医である。佐倉順天堂で佐藤泰然、長崎精得館でオランダ人医師ボードインより医学を学んでいる。1869年(明治2年)、新政府より医学校取調御用掛に任命され、越前藩の岩佐純と共に、西洋医学の導入に際してはイギリス医学ではなく、ドイツ医学の採用を進言し、以後20世紀の中頃までの日本では、ドイツ医学が中心となった。ドイツ医学を進言した相良が、ここでは直正公の健康回復に効果のあったアメリカ医学に感謝している。」(本書235頁)

「8月27日 本日、私の日本人の患者である肥前藩主について新たな知らせを受け取った。藩医である相良知安が医師1名、役人2名と共に私を訪ねてきた。藩主が健康を回復したことを聞いた。藩主は肥前国での公務のため帰国の途中で、わざわざ礼を言うために医師団を送ってよこしたのだという。~中略~ 藩医は私に籠いっぱいのアヒルを持ってきた。肥前藩主の健康の続くことを祈念する~以下略~」。(本書90頁)

以上が本書の引用記述です。

以上の2箇所の記述の通り、下線を引いた箇所で判るように、相良知安の名前呼称は、「Du Dan」(デユ ダン)は、【ち あん】の発音に近いのです。【ともやす】という長い発音ではないのです。よって、この文献を根拠として、相良知安の呼称を、【さがら ちあん】と確定しましたのでお知らせします。この根拠は、今回本書の出版によって初めて判明した新知見であります。新知見について、大学教授(歴史学)・歴史研究者から支持と賛同を得ています。皆様への回答(報告)になりますならば、望外の喜びです。今後とも「相良知安」をどうぞよろしくお願い申し上げます。最後に本書の著者である布施田先生から、掲載許可と多大なるご教示・ご助言を頂き厚く御礼申し上げます。   (文責筆者)

 

【参考文献】

①『アメリカ海軍医ボイヤーの見た明治維新(1868-1869年の日本)』(布施田哲也翻訳:デザインエッグ(株)発行:2016年11月第2版発行)。本書は「アマゾン通販」にて販売されています。  ※なお、この翻訳本には、下記の原本があり、本書は原本の翻訳であります。

“NAVAL SURGEON  Revolt  in Japan 1868-1869   THE  DIARY  OF  DR.SAMUEL   PELLMAN  BOYER     Edited  by  Elinor  Barnes  and  James  A. Barnes  Introduction  by  Allan  Nevins” (Bloomington, INDIANA UNIVERSITY PRESS 1963)です。

②『鍋島直正公を診察した米国医師ボイヤーによる医療支援の概要』(1868.7.29)』(布施田哲也著:(公益財団法人)「鍋島報告会」研究助成報告書第7号:2016年2月発行)

 ③『1868-1869年に米国海軍医として日本中心に勤務したボイヤーの日記について』(布施田哲也口演・著:「第117回日本医史学会総会・学術大会(広島大会)」抄録号『日本医史学雑誌』(第62巻第2号:平成28(2016)年6月20日発行)

  ④『佐賀学Ⅲ-佐賀をめぐる交流の展開-』(伊藤昭弘編:2017年発行:海鳥社発行)に収録の【『診療御日記』にみる西洋医学治療】(P207~P232)(青木 歳幸著)

 

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