相良元貞(知安の弟)とベルツ博士


※相良元貞(ベルリン大学留学当時)

※辞令「大学校中助教兼大寮長」
(明治2年)相良家蔵


※「ベルリンの日本人留学生(明治5年頃)
(東大生理学同窓会所蔵)元貞は最後列の右二人目。

 相良元貞(1841~1875年)は、相良長美(柳庵)の四男及び相良知安の弟として、佐賀郡八戸村(現佐賀市八戸)に天保12年(1841年)10月13日出生する。藩校弘道館から医学寮・蘭学寮そして藩医学校(好生館)で学ぶ。文久2年(1862年)の好生館時代には、『扶氏経験遺訓』(緒方洪庵がドイツの教授フー フェランドの内科書をオランダ語訳したのを翻訳した文献)の会読会に参加する。元治元年(1864年)江戸遊学を命ぜられ、幕府の「江戸医学所」(松本良 順頭取)に入門し、同僚の永松東海と共に蘭医学を学ぶ。

同年秋には、兄の知安が学んだ下総佐倉(現千葉県佐倉市)の 「順天堂塾」で佐賀藩の同僚である永松東海と共に、長崎で蘭医学を蘭医ポンペから学んで帰郷した佐藤尚中(創設者佐藤泰然の養子)に師事し、蘭医学を学 ぶ。順天堂塾で元貞は、会頭を努め「ヒルトル解剖書」や「ストクハルドト化学書」を朝から夕方まで講義した。明治2年(1869年)、東京下谷泉橋(現神田泉町)の旧藤堂屋敷に移転した「医学校兼病院」への勤務を命ぜられ、その後名称が大学東校と変わり、中助教兼大寮長に就任する。
明治3年(1870年)2月に大阪医学校に、同僚の永松東海や林洞海ら順天堂塾門下らと中助教として転勤を命ぜられる。同年10月に「明治政府派遣第1回 ドイツ留学生」(9名)の一員に選抜され、同年12月にプロイセン(ドイツ)のベルリン大学へ医学留学に旅立つ。専攻は病理学である。9名は、相良元貞の 他に、池田謙斎(外科)・大沢謙二(生理学)・山脇玄(解剖学)・今井巌(生理学)・荒川邦蔵(治療学)・大石良乙(佐賀藩出身・化学)・北尾次郎(物理 学)・長井長義(薬学)である。政府は主に大学東校の教授スタッフの中から、派遣留学生を選抜した。長井長義は、その後日本薬学の鼻祖となる。派遣留学生 は、横浜港から航路で太平洋を渡りアメリカ西海岸に到着し、鉄道で大陸を横断。東海岸から大西洋を航路で渡りロンドン経由でオランダに上陸する。鉄道を利 用し、やっとプロイセンの首都ベルリンに到着した2ヶ月の長旅でした。ベルリンでは、最初に家庭教師に就きドイツ語の基礎と会話を学ぶ。

明治4年(1871年)冬学期から、ベルリン大学医学部へ学 籍登録し入学した。大学では、細胞病理学の大家ウイルヒョウ教授やレイモン教授(生理学)・ランゲンベック教授(外科学)・ライヘルト教授(内科学)・フ レーリヒス教授・トラウベ教授(内科学)・リープライヒ教授(薬物学)・ドーベ教授(物理学)・ホフマン教授(化学)など当時の世界的な医学者から学ぶ。 医学部があるシャリテ病院で、解剖学や病理学及び解剖実習など臨床を学ぶ。フンボルト大学(旧ベルリン大学)アーカイブには、留学当時の元貞の履修記録が 保存されている。

ドイツ滞在5年間に、医学博士号取得を目指し勉学に励む。在学四年後の八学期を終了し、いよいよ博士号(ドクトル)を取得しようとする秋の時期に、解剖実 習中に執刀メスで誤って自分の手指を傷つけ、その感染から肺病を患い入院します。明治7年(1874年)冬学期から、ライプチヒ大学医学部へ転学し学籍登 録します。同大では、ドイツ内科学の権威ヴンダーリッヒ教授やワーグナー教授(内科臨床)らから治療を続けながら学んだ。

 元貞とベルツ博士との出会いは、1875年にライプチヒ大学病院に入院した元貞を診察した 時に始まる。ベルツは、日本からの留学生である元貞を献身的にお世話し、次第に元貞の母国の日本への強い好奇心を抱き始める。異国の地で病に倒れ心細い思 いをしていた元貞は、ベルツの温情にどれほど感謝したかは容易に想像がつく。治療と学業を継続したが病状が好転しない中、明治8年(1875年)3月同大 へ退学届けを提出し、6月失意のうちに帰国した。元貞は、同年10月16日に35歳の若さで東京で没し青山墓地に葬られる。元貞は恩人ベルツの来日と再会 を待たずに死去した。兄の相良知安らの尽力によりドイツ医学採用が明治政府により決定された後、留学中の元貞からベルツの評判を聞いた知安は早速、ベルツを東京医学校医学教師として招聘するよう明治政府に要請した。

 


※E.ベルツ(1849‐1913)

その結果ベルツは、翌明治9年(1876年)ドイツ医学の指導教師として、東京医学校教師として招聘された。内科学を中心に病理学・薬物学と産婦人科学及び精神医学まで担当する。
 日本人女性ハナと結婚し長男(トク・ベルツ)と長女(ウタ)が誕生。
 明治13年(1890年)、明治天皇および皇太子の侍医となる。
 明治40年(1907年)、東京大学医学部構内にベルツ博士とスクリバ博士の胸像が建立された。
 脚気の研究や温泉の効用を発表したので、草津温泉にはベルツの功績を讃えて、記念碑と胸像が建立された。皮膚の荒れを防ぐ目的の化粧水である「ベルツ水」を考案したことで有名。
 明治38年(1905年)勳一等旭日大綬章を授章され、同年夫人と共にドイツへ帰国した。
 大正2年(1913年)、ドイツで死去。享年64歳。ベルツの墓所は、シュトットガルトの「森の墓地」に眠る。「日本近代医学の父」として、我が国医学の発展に貢献したベルツは、相良元貞との出会いにより、日独医学交流の懸け橋の役割を果たしたと言える。

筆者は2014年(平成26年)7月に、先祖相良元貞の足跡を辿るドイツへの旅を実現した。足跡を辿った視察報告の詳細は、本HPの「相良元貞(知安の弟)のドイツ医学留学の足跡」を閲覧くだされば幸いです。


※「ベルツ墓所と筆者」

【参考文献】
トク・ベルツ『ベルツの日記』(上)・(下)岩波文庫。『明治期のドイツ留学生』(森川潤著:2008年:雄松堂)。『虹の懸橋』(長谷川つとむ著:2004年:冨山房)。『ドクトルたちの奮闘記』(石原あえか著:2012年:慶応大学出版会) 
 

  →相良知安とドイツ医学導入
→相良知安と東京大学医学部

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