相良元貞(知安の弟)のドイツ医学留学の足跡

  筆者の念願の夢でありました先祖相良元貞(さがらもとさだ:1841-1875)の足跡を辿るドイツ&スイスへの念願の視察訪問を、平成26年(2014年)7月に実現出来ました。筆者は元貞より5代目の子孫(相良隆弘)です。

※相良元貞(1841~1875)ベルリン大学留学当時

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

相良元貞は、明治初期我が国へドイツ医学の導入に尽力し、我が国近代医学制度の創設に貢献した佐賀藩医相良知安(さがらちあん)の弟です。
最初に相良元貞の経歴を述べたいと思います。
天保12年(1841年)佐賀藩医相良長美(柳庵)の四男として、佐賀城下八戸に生まれる。藩校弘道館に入学後、藩医学校「好生館」へ進みます。
文久3年(1863年)、江戸遊学を命じられ蘭医松本良順が主宰する「幕府医学所」に入門し蘭医学を学ぶ。その後慶応元年(1865年)には、兄相良知安が学んだ下総佐倉の「佐倉順天堂塾」に入門し、蘭医佐藤尚中から蘭医学を学び会頭を務めながら「ヒルトル解剖書」や「ストクハルドト化学書」を、塾生に朝から夕方まで講義しました。 

  

 
 

 

 

 

 

 

※旅券渡航証明書(明治3年)   

左より3人目に相良元貞の名前が有る。


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

明治2年(1869年)、「大学東校」(現在の東京大学医学部)の中助教兼大寮長に就任します。明治3年(1870年)2月に「大阪医学校」(現在の大阪大学医学部)中助教として転勤した後、同年12月に「明治政府第1回派遣留学生」(9名)の一員として、プロシア(ドイツ)のベルリン大学へ医学留学しました。専攻は病理学です。
官費留学生は、病理学の相良元貞(以下は「元貞」と表記)ほか池田謙斎(外科)・大石良二(化学)・長井長義(薬学)・大沢謙二(生理学)・山脇玄(法律学)・今井巌(いわお:生理学)・北尾次郎(物理学)・荒川邦蔵(法律学)の計9名です。
明治3年12月横浜港から出港した一行は、太平洋を渡りアメリカ西海岸に上陸し鉄道でアメリカ大陸を横断します。さらに東海岸から大西洋を航海しロンドンを経てオランダのアムステルダムへ上陸し、そこから鉄道でやっとプロシア(ドイツ)へ到達する2ケ月余りをかけた長旅でした。元貞は太平洋の船上から知安へ手紙を出しています。  

 翌年の「岩倉使節団」(岩倉具視大使:明治4年11月出航)の経路も、上記の「ドイツ派遣留学生」一行の行程ルートと同一であり興味深い。
オランダのユトレヒトに立ち寄った一行は、元貞と池田謙斎の旧友で留学中の伊東方成(伊東玄朴の養子)、林研海らを訪問しますが不在であり、さらに恩師である蘭医ボードウインを訪問しますが生憎不在であり、ついに再会が実現しませんでした。一行はその後鉄道で、明治4(1871年)1月下旬にベルリンへ到着します。
厳冬のベルリンに到着した元貞及び池田謙斎・長井長義・佐藤進・大沢謙二ら留学生らは、まず家庭教師に付きドイツ語の習得に苦労しながら励みました。

長井長義、北尾次郎は同じ下宿先の老婦人から、ドイツ語上達の為「グリムとアンデルセンの童話」を読んでもらい、さらにドイツ社会での礼儀作法や教養まで伝授されています。同じ下宿先に日本人留学生ばかり居住していたら、ドイツ語が上達しないとの理由から下宿を変更したり、また街のビアホールに出向きビールを飲みながら、ドイツ人へ積極的に話し掛けて、会話の上達に繋げるなど必死に行っています。                                  官費留学生らは、当初「ドイツは唯医学のみが優秀なる国」との認識でしたが、いざ現地で見聞するにつれ医学ばかりでなく、ドイツは「百科研究の学問すべてに優秀な国」と再認識したのです。官費留学生の主体は医学生でしたが、留学後に専攻学問を変更する者が出てきました。   

留学中にドイツ人女性と結婚し帰国した留学生がいます。まず法律専攻の青木周蔵は、明治10年(1877年)にエリザベートと結婚、物理学専攻の北尾次郎は、明治16年(1883年)にルイーゼと結婚し、薬学専攻の長井長義は、明治19年(1886年)にテレーザと結婚し、これら夫妻は国際結婚の先駆となりました。           この写真は明治5年 (1872年)頃のベルリン在住の日本人留学生33名です。元貞は、後列右より二人目です。                          政府派遣留学生のほか、各藩派遣の留学生、家族出身者や私費での留学生もいました。


 

 ※ベルリンの日本人留学生(明治5年頃) (東大医学部生理学同窓会所蔵)元貞は最後列右二人目。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

病理学を専攻しウイルヒョウ教授の指導で研究に励みます。ドイツ滞在5年間に勉学に励み医学博士号取得を目指します。
明治7年(1874年)の冬学期から、ライプチヒ大学へ学籍登録(10月19日付け)し転学します。臨床実習中に解剖メスで誤って自分の手指を傷つけ、そこから細菌に感染されて肺病を患います。勉学も継続しながらライプチヒ大学附属病院へ入院しました。そこで主治医のE.ベルツと出会います。日本人医学生の元貞と初めて出会ったベルツは、献身的に元貞を治療しました。
異郷の地で病気を患い心細い思いをしていた元貞は、ベルツの温情にどれほど感謝したかは、容易に想像がつきます。ベルツは、次第に元貞の故国である極東の国日本への、興味と関心を抱き始めます。
兄の相良知安は、元貞からの手紙によりE.ベルツの評判を伝え聞き早速に明治政府へ依頼し、ベルツをドイツ医学教師として東京医学校への招聘するように要望します。明治政府は明治8年(1875)、青木周蔵駐ドイツ公使にE.ベルツとの招聘交渉を命じ、明治9年(1876)
1月に招聘決定して、同年6月にベルツは日本に着任しました。
元貞は、E.ベルツの懸命な介護と治療にも拘わらず好転せず、明治8年(1875年)3月15日に失意のうちにライプチヒ大学医学部を退学し同年6月帰国します。同年10月16日に東京で死亡しました。享年35歳。墓地は明治政府により青山墓地(東京港区青山)に葬られました。明治初期は土葬でした。

 

     ※相良元貞墓地(青山霊園:土葬のため礎石のみ)
恩師E.ベルツが来日した明治9年には、元貞は既に死亡していましたのでベルツとの再会を果たせなかったのです。
E.ベルツ博士は、東京医学校で26年間も生理学、内科学、産婦人科の教鞭をとり多くの医学生を指導し育成しました。
日本人のハナ(花子)と結婚し長男トクと長女ウタが誕生しますが、長女ウタは2歳の時病気で急死します。草津温泉を愛し温泉医学の研究に貢献します。
その後明治13年(1880年)に明治天皇及び皇太子の侍医に就任しました。
この結果、ベルツ博士は「日本近代医学の父」と呼ばれ日本医学の発展に多大な貢献をしました。ベルツ博士と相良元貞は日独医学交流の懸け橋(Die  Brueke)の役割を果たしました。以上が元貞の略歴です。

平成26年(2014)7月1日、「ドイツ外科学会」事務局を表敬訪問しました。ベルリンの中心街(ルイーゼン通り)にある「ランゲンベックーウイルヒョウーハウス」の建物に事務局があります。

  ※ランゲンベック-ウイルヒョウ-ハウス

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ドイツ外科学会」はドイツ医学界で長年の歴史と伝統を誇る名門学会であり、外科学の権威B.ランゲンベック教授や細胞病理学のR.ウイルヒョウ教授など世界的な医学者を輩出しています。岡田昌義先生(神戸大学医学部名誉教授)のご紹介で表敬訪問し、事務局長のDr.Nowoiski教授と面会しました。
ここでベルリンの友人であるF.ケーザー(Kaeser)先生を紹介します。日本の近現代史を研究されていて、日本語を話せるケーザー先生にベルリンを案内して頂き、大変助かり感謝いたします。






 

※森鷗外記念館

 

 

 

 

 

 

 

 

 

近所には「森鷗外記念館」がありますので同年7月2日に訪問し、B.Wonde副館長と歓談しました。日本語が堪能な同氏は、日本から来た元貞の子孫の筆者らを歓迎してくれました。鷗外は軍医として明治17年(1884年)からドイツへ留学し、元貞は医学生として留学した共通の目的がありました。元貞と鷗外は留学時期が異なりますが、二人はベルリン大学とライプチヒ大学の双方に留学し研究した共通の実績があります。
この日は、更に同じ地区にあります広大な土地及び300年の歴史と伝統を誇る「シャリテ病院」及び、病院敷地の一角に佇む「ベルリン医学史博物館」(Berliner Medizinhistorischen Museum der Charite)を見学しました。

  


※シャリテ病院正門と筆者

 

 

 

 

 

 

 

 

「シャリテ」の語源はフランス語で『隣人愛』を意味します。宝永7年(1710年)プロイセン王の命で、ペスト患者を収容する施設として城壁の外側に設立されました。シャリテ病院は、文化7年(1810年)に旧ベルリン大学が開校した時に、医学部附属病院として編入されます。
19世紀には世界の医学界をリードする存在となりました。細菌学者ロベルト・コッホ、細胞病理学R.ウイルヒョウ、「化学療法の父」と呼ばれるエールリッヒ等を輩出し、ドイツのノーベル医学・生理学賞受賞者も、その半数以上がシャリテ出身者で占められています。元貞ら日本人留学生もこの病院で研究しています。現在もヨーロッパで最大規模の大学病院として機能しています。

※R.ウイルヒョウ(1821-1902)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「病理学博物館」創設の基礎となったのは、病理学の権威であったR.Virchow教授(1821-1902)が収集した病理学及び解剖学のプレパラートでした。
ウイルヒョウは、「病気は細胞の疾患に由来する」という細胞病理学を唱え、また血栓症の要因も解明しました。明治32年(1899年)に開館した「病理学博物館」には、研究と後進の指導教育のため、2万件を超えるプレパラートを収集し展示されていました。
しかし第2次世界大戦でその多くは、残念ながら焼失してしまいました。東西ドイツ統一後、「ベルリン医学史博物館」として再生しました。
観覧した「ウイルヒョウ標本」はとても見事であり驚きの標本数でありました。当時のドイツ医学の優秀性と先進性が証明される、貴重な学術標本でありました。
「R.Virchow-Hauz」の建物も並び、シャリテ病院の病理学研究所として活動しています。ウイルヒョウの「Omnis  cellula   a   cellula」(全ての細胞は他の細胞からできる)とラテン語での名言が、研究所前の広場に銘板として刻まれていました。

※ウイルヒョウの名言

 

 

 

 

 

 

 

 

シャリテ病院はシュプレー川沿い立地し、対岸にはベルリンの中心部であるベルリン中央駅やドイツ連邦議会議事堂、首相官邸、フンボルト大学、ブランデンブルグ門など政府中枢機関や繁華街が集中している都心です。
以上の3ケ所(ドイツ外科学会・森鷗外記念館・医学史博物館)を重点に訪問しましたが、所在地がベルリンの中心街であるLuisenstr.(ルイーゼンシュトラーセ)に集中していますので、訪問するのにとても便利でした。
上記の3ケ所には、『相良知安―医と易』(羽場俊秀著:佐賀新聞社発行:2014年4月発行)を持参して、贈呈しましたらとても喜ばれました。
元貞は留学中にウイルヒョウ教授から病理学の指導を受けています。
元貞が在学中にシャリテ病院と病理学博物館(旧名)へ通学し、教授の下で病理実習していた事を想像すると、誠に感慨深いものがありました。
 

   ※フンボルト大学(旧ベルリン大学)正門と筆者

 

 

 

 

 

 

 

 

2014年7月1日には、フンボルト大学(旧ベルリン大学)文書館アーカイブを訪問し、W.Schultze館長と面会し視察訪問しました。
アレキサンダープラッツ駅からSバーン電車に乗り、30分で到着したベルリン郊外の同大学文書館アーカイブ(Eichborndamm. 113)は、緑が多い郊外の住宅街の通りにありました。調査終了後に、館長へ『相良知安―医と易』(羽場俊秀著:佐賀新聞社発行)を贈呈して喜ばれました。
ベルリンは、第二次世界大戦の戦災でほぼ壊滅した首都ですが、この文書館には明治期の古い史料が幸運にも、焼失することなく保存されていたのです。

 旧ベルリン大学は、文化7年(1810年)プロイセン国王フリードリヒ・ヴィルヘルムにより設立されましたが、第二次世界大戦後にフンボルト大学(旧ベルリン大学)と改称されました。ベルリンでは200年の歴史ある最古の大学です。
フンボルト大学文書館アーカイブ史料からは、元貞が在籍した当時のベルリン大学「学籍登録者名簿」や指導教授名、指導を受けた教科、当時の下宿先の番地などが判明しました。
史料からは、元貞が在籍した当時のベルリン大学「学籍登録者名簿」や指導教授名、指導を受けた教科、当時の下宿先の番地などが判明しました。
「学籍登録者名簿」には元貞が、明治4年(1871)10月4日に署名して冬学期の登録をしました。

 


          ※ベルリン大学「学籍登録者名簿」(全員)

名前は「Gentei Sagara」(相良元貞)、出生地は「Japan」(日本)、専攻は「Arzt Sagara」(医師 相良)と記載されています。
学籍期間は、「1871年(明治4年)10月19日~1874年(明治7年)9月24日」まで、Medizin(医学)の学籍番号は「1080」です。

※ベルリン大学「学籍登録者名簿」(全員名簿一覧:抜粋) 

 No  名     前   出身地(出生地)     専 攻      氏   名     備  考 

 1080、Sagara  Gentei、Hizen  Saga、  Medizin、Sagara  Gentei、   24/9.1874、

 ※ベルリン大学「学籍登録者名簿」

「学籍登「学籍登録者名簿」は全部で5枚ありました。最初の「名簿」(以下「学籍登録者名簿」を「名簿」と表記します)は、学生全員の「名簿」であり学生は全て自筆で署名する必要がありますので、元貞も自署しています。

※ベルリン大学「学籍登録者名簿」(個人名簿)

 

                      

    Wir Rector und Senat                                 

                                      (学長と評議会)
      Der Koniglichen Fridrich Willhelms Universitat zu Berlin

                (王立フリードリヒ・ヴィルヘルム・ベルリン大学)
名 前:(Name)      Gentei  Sagara 
出生地:(Geboren)     Japan    
 ●●●  ●●●●●     Arzt    Sagara                     
●●●●● 
 学籍登録日:     4.Oktober     1871 
退学日:  ●●●●           24.September 1874
専 攻:(Studium)  aus  Medizin                   
                                                                            ●●●● 

●は、現在解読中ですので解読後に再度掲載します。
名前は「Gentei Sagara」(相良元貞)、出身は「Hizen  Saga」(肥前佐賀)及び専攻は「Medizin」(医学)等が、記載されています。

さらに「名簿」の2枚目と3枚目には、受講年度、受講科目、受講教授名が下記の通り記載されています。 この名簿は、自筆かつ手書きのドイツ語での記述であり解読に難儀しました。
第2次世界大戦前の明治期のドイツの公文書は、筆記体も現代と異なり「ひげ文字」(Fraktur)と呼ばれるドイツ特有の活字が、使用されています。
しかも手書きでのドイツ語はなおさら解読が難解であるので、今後も解読を継続していくことを課題としたいと思います。


※ベルリン大学「学籍登録者名簿」(年度・科目・教授名)

※ベルリン大学「学籍登録者名簿」(受講年度・受講科目・教授名)

 
      【Ⅰ W.(冬学期) 1871年】
  ◎化 学(ホフマン教授)
     【Ⅱ S.(夏学期) 1872年】
       ◎●●● (●●●●教授)
                【Ⅲ W.(冬学期)   1872年】
◎解剖学(ライヘルト教授)、◎生理学(デュボア・レイモン教授)
◎実験物理学(ドーベ教授)
             【Ⅳ S.(夏学期)   1873年】 
◎病理解剖学(ウイルヒョウ教授)、◎薬物学(リープライヒ教授)
◎●●●(●●●●教授)
       【Ⅴ W.(冬学期)  1873年】 
◎病理解剖学(ウイルヒョウ教授)、◎内科学(フレーリヒス教授?)
       【Ⅵ  S.(夏学期)   1874年】
◎皮膚科(レイウイン教授)、 ◎内科(フレーリヒス教授)
◎外 科(バルデレーベン教授)、◎外科(ランゲンベック教授)
◎生理学(ゴルツ教授)、  ◎生理学(デュボア・レイモン教授)
◎●●●(リヒフォーロフ?教授)、 ◎●●●(フオルフツ?教授)
 

●は未解読ですので、今後も継続して解読していくのが課題となります。

当時元貞が下宿していた場所は、現在の「森鷗外記念館」(Luisenstr.39)の隣の番地(Luisenstr.37)と判明し早速に現地を訪問しましたら、現在は空地でありました。現地は当時のベルリン大学とシャリテ病院に近く、便利な場所に下宿していたのが判りました。
元貞が留学生活をしていた下宿跡を144年ぶりに訪問した子孫の筆者は、万感の思いがこみ上げながらしばし先祖の留学生活を偲んできました。 


              ※相良元貞下宿跡(ベルリン)と筆者

その後ケーザー先生とフンボルト大学(旧ベルリン大学)を訪問し、当時過ごした留学生活に思いを巡らせ、元貞の姿を想像しながら佇みました。
2014年7月3日は、これまで3日間お世話頂いたケーザー先生とお別れし、ベルリンの観光名所である世界遺産の「博物館島」を見学しました。
特に古代エジプト文明の遺産を集約した「ペルガモン博物館」と「新博物館」の内容とコレクションの膨大さに圧倒されました。残る「ボーデ博物館」・「旧ナショナルギャラリー」・「旧博物館」も終日かけて見学し全5館を制覇しました。
人類共通の遺産である古代オリエント文明遺跡を、保存し公開しているドイツの偉大さ壮大さに圧倒されました。
以上がベルリンでの足跡を辿る主な活動内容です。

   ※ペルガモン博物館(ベルリン)と筆者

 

相良元貞は、明治7年(1874)冬学期(10月から始まる)から、ライプチヒ大学医学部へ転学し「学籍登録者名簿」に登載されました。ドイツの大学は、夏学期(4月頃~9月)と冬学期(10月頃~3月)の2学期制です。
当時のドイツは、2年間(4夏・冬学期)を終了しなければ、博士試験の受験資格が取得出来ませんでした。元貞はベルリン大学へ4年間在学したのでその受験資格は有りました。
ちなみに、日本人留学生では、日本人海外旅券発行者第1号である佐藤進(1845-1921)が、明治7年(1874)にベルリン大学で「医学士(MD)」を取得しました。この取得はアジア人として最初の快挙であります。
佐藤進の祖父は、佐倉順天堂塾の創始者である佐藤泰然です。

続いて池田謙斎(1841-1918:後の東京大学初代医学部総理)も翌年にMDを取得します。また日本薬学の開祖であります阿波藩出身の長井長義(1845-1929)は、留学当初の「医学(Med.)」から途中で「化学(Chmieh.)」へ、専攻を変更し化学研究に没頭しました。まず哲学博士(phD)を取得しました。
当時の官費留学生には、政府より年間千円が給付されていました。
この金額は、ドイツでの経済的な生活には贅沢しなければ十分な額でした。
ところが明治政府は、明治6(1873)に官費留学生予算(文部省支弁)の増大が財政を圧迫しているとの理由から、文部省支弁の官費留学生に対し留学生活費の支給停止及び強制帰国命令を出しました。これに対し「学問の半ばでは帰国できない」と反発した長井長義・池田謙斎らは、私費や陸軍省費での留学続行を決めます。元貞も反発しますが明治7年頃に病気を患っていたので、帰国命令が延期されたと推測されます。
明治7年当時の官費留学生は42名が滞在していました。官費留学生の多くは、帰国命令に応じて明治7年(1874年)に帰国しました。

 池田謙斎の文書や書状が納めてある『池田家文書』には、謙斎が渡独中の明治3年12月に渡航中の船上から、日本の家族宛へ出した手紙が残っています。
当時の大学東校権大丞に就任していた相良知安(元貞の兄)に対して、同校で大助教を務めた謙斎は、知安がこの年に冤罪により不当に逮捕投獄された事を心配する内容の手紙を残しています。
また同文書の書簡には、元貞が留学中に池田謙斎からドイツ銀貨100ターレル(当時の75円31銭)を借用した金銭を、元貞が先に帰国した明治8年(1875)に東京の池田宅へ返済したとの書簡も残っています。

 ベルリン大学へ留学した日本人留学生の総数は、明治3年~明治26年間に約590名に及び、学部別では医学部が243名と一番多く、哲学部186名、法学部161名でした。ベルリン大学へ日本人として初めて学籍登録した留学生は、明治3年(1870)冬学期から青木周蔵・萩原三圭・佐藤進の3名です。当初私費留学していた外科の佐藤進と生理学の萩原三圭,及び藩費で留学していた青木周蔵も,その後官費留学生に切り替わります。
ドイツの全ての大学への日本人留学生総数は、同じ期間で1475名に上り、主要な留学先大学別内訳(全学部)として、ベルリン大学590名、シュトラスブルク大学125名、ハイデルベルグ大学113名、ライプチヒ大学110名、ミュンヘン大学110名、チュービンゲン大学71名、ビュルツブルグ大学71名などである。(『明治期のドイツ留学生』森川潤著より)
ドイツへ留学した明治期の主要な人物としては、森鷗外(軍医:作家)・桂太郎(首相)・山縣有朋(首相)・後藤新平(外相)・西園寺公望(首相)・滝廉太郎(音楽家)・大山巌(元帥)・乃木希典(元帥)・長岡半太郎(物理学者)等が有名です。
医学関係では、北里柴三郎・志賀潔・秦佐八郎・山樫勝三郎・田原淳・長井長義らドイツ留学を経験した医学者らが世界的な業績を挙げ、医学史にその名を遺しています。


    ※北里柴三郎博士(1852-1931)
    「(学校法人)北里研究所所蔵」

ドイツの各大学へ留学した学生達は卒業後帰国し、ほとんどが東京帝国大学や旧帝国大学教授等や国家官庁に勤務し、我が国の学術発展と産業振興に多大なる貢献と後進への指導に尽力しました。元貞も病気せず無事に帰国していたら、その後東京大学医学部の初代病理学教授に就いたものと思慮されます。
ベルリン大学で病理学を専攻した元貞は、指導を受けたR.ウイルヒョウ教授から多大なる薫陶を受け研究に励みました。
ベルリン大学で4年間の研究生活を終えた元貞は、ベルリン大学とウイルヒョウ教授に別れを告げ、ライプチヒ大学医学部へ転学しました。
元貞が、明治7年(1874年)10月にライプチヒ大学医学部留学生の日本人第1号となりました。


※ライプチヒ大学医学部正門

ライプチヒ大学は応永16年(1409年)に創立され、ドイツではハイデルベルグ大学に続く2番目に古い歴史をも持ち、その中でも特に有名な医学部は応永22年(1415年)に創立された。明治期に相良元貞・森鷗外・萩原三圭・三浦守治・緒方正規など15名の日本人医学留学生が学んでいました。森鷗外は明治17年(1884年)に同大学へ留学し、衛生学のホフマン教授に師事しました。

   ここでE.ベルツ(1849-1913)の経歴について述べてみます。ベルツは、嘉永2年(1849年)南ドイツ、ビューティヒハイムに生まれ、シュトトガルトの高校を卒業した後、慶応2年(1866年)チュービンゲン大学医学部に入学します。明治2年(1869年)医師予備試験を受けた後、ライプチヒ大学病院へ移りドイツ内科学の権威C.ヴンダーリッヒ教授の指導の下で内科の臨床講義を受けます。


     ※E.ベルツ博士(1849-1913)

明治3年(1870年)普仏戦争が勃発したので、プロシア第三軍野戦病院付き見習軍医として志願し従軍しました。復員後の翌年、ライプチヒ大学学士試験に最優秀の成績で合格し復学しました。ヴンダーリッヒ教授(1815-1877)は、それまでの狂信的科学主義と評された時代に、病理解剖と生理学の基盤に立った科学的な臨床医学を主張し実践しました。
ヴンダーリッヒ教授の内科医局に入局したベルツは、ここで4年間最先端のドイツ内科学を習得しました。高齢のヴンダーリッヒ教授の第一助手として代理で行うベルツの講義は、内外に評判が高くライプチヒ大学医学部を背負う人物の一人と、目されるようになりました。
元貞はこの頃、臨床解剖の実習中に手刀したメスで自分の手指を傷つけ、そこから感染した病菌のため肺結核を患いました。
当時の世界の医学界では、結核に対抗する治療薬がまだ発見されていませんでした。元貞が感染した結核菌は、その後ドイツの細菌医学者コッホによって明治15年(1882年)に発見されました。


   ※ライプチヒ大学医学部(解剖学教室)

ベルツと相良元貞の出会いは、明治7年(1874年)冬学期にライプチヒ大学病院へ入院した元貞を診察した時に始まります。
ベルツは、主治医として日本からの医学生を初めて診察します。元貞を献身的にお世話し、次第に元貞の母国日本への強い興味と好奇心を抱き始めます。
遠い異郷の地で病を患い心細い思いをしていた元貞は、ベルツの温情にどれほど感謝したかは容易に想像がつきます。
温暖地(特に九州や中国・四国地方)出身の留学生は、ドイツの過酷な冬の気候に順応できず肺病を患う者が大勢いました。元貞もその一人です。
ドイツへの留学生の中で、明治34年(1901年)ライプチヒ音楽院へ留学した作曲家で大分県出身の瀧廉太郎(1879-1903)も、留学中に重い結核を患い入院しますが回復せず、翌年帰国し明治36年(1903年)に23歳で死亡しました。
元貞は帰国後の明治8年(1875年)10月16日に東京で死亡しました。兄の知安は、深く嘆き悲しんだといわれています。享年35歳で青山墓地に眠っています。
死去に際し学友の司馬盈之と永松東海(佐賀藩出身)が、弔文を「東京日日新聞」(明治8年10月22日付け)へ寄せていますので、下記に紹介します(原文のまま)。

「佐賀県士族相良元貞君ハ 五年前大学中助教奉職中医学修行ノ朝命ヲ奉シテ普国ニ留学セリ 元来才力非凡ナル上ニ勉強モ亦大ニ人ニ過タリ 彼国大学ニ入テ既ニ第八学期ノ課程ヲ修メ学術大ニ成熟シテ已ニ[ドクトル]ノ試験ヲ受ケムトスルノ秋ニ至リ 曾テ屍毒ニ中リ体力未タ旧セサルニ続テ肺疾ニ罹リ志ヲ遂ゲズシテ帰朝ス 未ダ幾千ナラス百治効ナク遂ニ本月十六日東京ニ於テ齢三〇有五ニシテ折ス 嗚呼憾ム可シ造物ノ才人ヲ厄スル何ソ其レ酷ナルヤ 天若シ斯人ニシテ年ヲ仮サバ豈啻ニ癈ヲ起シ骨ニ肉スルノミナランヤ 後進ノ仰デ以テ泰斗トナスノ期モ亦将ニ爰ニ在ラントス 今ヤ不幸ニシテ其学フ所ノ什一ヲ試ムルコト能ハズシテ没ス 誠ニ惜ムベキナリ 吾儕同胞歎惜ノ至ニ堪ヘズ爰ニ新聞ノ余白ヲ仮テ 以テ世ノ曾テ同氏ヲ識ルノ諸君ニ訃ク。学友 司馬盈之・永松東海」

 
明治9年(1876年)6月ベルツは、内科のウエルニヒの後任教師として東京医学校へ赴任しました。恩師ベルツが来日した時、元貞は既に死亡していましたので再会は叶いませんでした。
2014年 7月 7日に元貞の史料が判明したライプチヒ市アーカイブを訪問しました。アーカイブ担当のヒラートさんが不在でしたが、日本から来た子孫で有ることを説明し理解を求め、謝意を伝えてきました。次にライプチヒ大学アーカイブを訪問し、担当者のヘッセさんと面会しました。


           ※ライプチヒ市アーカイブ

ライプチヒ大学アーカイブ史料の「学籍登録者名簿」からは、元貞は明治7年(1874)年10月19日(冬学期)に、ライプチヒ大学医学部へ学籍登録していたことが判明しました。この名簿からは元貞の指導教授は、当時のドイツ内科学の権威であるヴンダーリッヒ教授であるとの記述も判読できました。


         ※ライプチヒ大学アーカイブ

「学籍登録者名簿」(以下「名簿」と表記)の全員名簿(抜粋)を下記に掲載します。


※ライプチヒ大学「学籍登録者名簿(表紙)」

※ライプチヒ大学「学籍登録者名簿」の全員名簿(活字:抜粋)

 
1873/74:1135                 19.10.1874;
Sagara Gentei;  ;Medicin;
Saga; Japan; 33;heimatische;
Pract;       Arzt;Auslander;
Berlin;   Sterwarten-Str.22、Ⅰ.Trp;
 

元貞の個人名簿には、下記の通り掲載されています。


   ※ライプチヒ大学「学籍登録者名簿(手書き)」

※ライプチヒ大学「学籍登録者名簿」の個人名簿(手書き:抜粋)
 

     
No              Name・Geburtsort (氏名・出生地)  成績証明書発行日  成績証明公告日
 
                                     Studium(専  攻)    退学日  領収日  
                            Sagara Gentei   10.April 1875    16/4 1875
 
452                      aus    
                               Japan   15.Marz 1875  
                           im     
                            19.Oktober 
                                1874
   
                            
                          Medizin    

  上記の2枚の名簿からは、1874年(明治7)10月19日にライプチヒ大学医学部へ学籍登録しています。名簿には、名前は、「相良元貞(Sagara  Gentei)と国籍は「日本(Japan)」、登録日(1874 年10月19日)、そして専攻は「医学(Medizin)」です。登録番号が1135(1863年からの一連登録番号)と452(登録学期番号)です。
そして1875年(明治8年)3月15日に退学届を出し、大学が4月10日に成績証明して承認しています。その後大学は、大学は4月16日にその事実を公告しています。元貞がライプチヒ大学に在籍したのはわずか6ケ月でした。

別の1枚の名簿(掲載は省略)には指導教授として、C.Wunderlich教授(ヴンダーリッヒ)が記載されています。また病理学・内科臨床のワーグナー教授からも指導を受けています。あと1名の教授名を解読中です。
ヴンダーリッヒは、当時のドイツ内科学・生理学の権威でありベルツの恩師でありました。また臨床医学で体温測定計を発明したことで有名です。
元貞はベルリン大学で明治7年(1874)9月の夏学期まで在籍し,通算して6学期を修了しました。同年10月にライプチヒ大学医学部へ転学し「学籍登録」しました。名簿からはドイツ内科学の権威で、ベルツが指導を受けたヴンダーリッヒ教授が指導教授でした。
元貞がライプチヒ大学附属病院に入院中に、ベルツ博士の治療・看護を受けた経緯や動静については、今回の渡独で調査出来ませんでした。さらに今後の課題とします。


          ※相良元貞の下宿跡(ライプチヒ)

元貞の下宿跡の住所が史料により判明していたので、アーカイブのヘッセさんより地図にて現在の地番を丁寧に教えていただき助かりました。
元貞の下宿跡はライプチヒ大学に近い閑静な住宅街の一角にあり、当時の建物は、洋服屋でマイスターのデーツさん宅の2階に、下宿していたことが判明しました。
その地番の現地を訪問し、この場所で元貞が留学生活と闘病生活を送っていたことを想い巡らせながら、万感の想いが込み上げ涙しました。

平成26年(2014)7月8日にシュトットガルトに定刻に到着しました。
ベルリンで案内して頂いたケーザー先生の故郷が近郊にあります。現地の地理に不慣れでしかも雨の日の視察地訪問が不安になって居る時、ご両親から「明日視察地をご案内します」との連絡がありましたので、本当に有難くよろしくお願いしました。
生憎の雨の中ご両親の車にて、先ずシュトットガルト市内の高台にある「森の墓地」のE.ベルツ博士の墓地を訪問しました。広大な森の一角に緑に囲まれたベルツ家の墓所があり、ベルツと妻花及び長男トクの墓標がありました。墓前に献花し偲んできました。
平成25年(2013年)に群馬県草津町とビューテイヒハイムビツシンゲン市は、姉妹都市締結50周年記念式典を当地で開催した際、ベルツ博士の墓前にはベルツ妻花子の出身地である愛知県豊川市の菩提寺西明寺住職が、持参して墓参された卒塔婆が供えてありました。


       ※E.ベルツ墓地(シュトットガルト)と筆者

次にご両親の運転で、アウトバーン(高速道路)を利用して車で1時間の距離の、ビューテイヒハイムビツシンゲン市にあるベルツ生家とベルツ資料館を訪問しました。生家そばには日本庭園があり、ベルツ博士を顕彰した記念碑や、「菊にほふ国に大医の名をとどむ」(水原秋桜子)の句碑などを見学しました。
資料館は市庁舎の隣にあり、ベルツ家族の写真はじめ明治天皇から送られた刀剣や鎧・太刀・掛け軸などが、展示されていました。資料館の来訪者記帳簿に、筆者が訪問した記録を記載してきました。


                    ※ベルツ資料館

群馬県草津町とビューテイヒハイムビツシンゲン市は、草津温泉を愛したベルツと彼の生誕地の関係で姉妹都市を結んでいます。
ベルツは温泉が好きで特に草津温泉を気に入り、トク・ベルツ編の『ベルツの日記』には「草津には、無比の温泉のほかにも、日本で最上の山の空気と全く理想的な飲料水がある。こんな土地がヨーロッパにあったら、どんなに賑あうだろう」と賞賛し、世界最高の高原温泉の医学的効用を世界に紹介しました。
また日本の温泉医学について、脚気の研究や温泉の効用の論文を発表しています。筆者は帰国後草津町を訪問し、ベルツ記念館やベルツ&スクリバ胸像と記念碑が設置されている西の河原公園などを、見学し交流しました。

 
             ※ベルツ記念館(草津町)

 
      ※ベルツ(左)&スクリバ胸像(草津町)

 シュトットガルトでは「ベンツ博物館」も見学しました。明治19年(1886年)に世界で初めてガソリン自動車を発明したのが、ベンツとダイムラーのドイツ人でした。
その本社と工場に隣接して博物館があり、多くの観光客で賑っています。最初に発明したベンツモーターワーゲン(自動車)が展示されていました。
シュトットガルト駅の高い屋上には、ベンツのロゴマークが回転しているのが有名です。


                    ※ベンツ博物館と筆者

翌日に歩いて中心部にある「リンデン博物館」を訪問しました。ベルツ研究家で有名なDr.S.Germann教授と面会する予定でしたが、ご家族の突然の急用の為残念ながら面会出来ませんでした。
この博物館にはベルツが、日本に居住した時代に収集した浮世絵・掛図・骨董など「ベルツコレクション」と呼ばれる膨大な文化財が保存されています。しかし公開展示されていませんでしたので、残念ながら拝観できませんでした。


                     ※リンデン博物館

以上でドイツでの足跡を辿る旅が終了しました。鉄道(ユーレイル2か国パスを保持)にて憧れのスイスへの旅を続けました。

2014年(平成26年)は、日本・スイス国交樹立150周年を迎え、記念としてコンサートや講演会・エベントなど両国の各地で多彩な行事が開催されました。スイスへ旅行する日本人観光客に対して、150周年記念キャンペーンが展開されました。ここで日本とスイスの友好交流の歴史を記述します。

1861年(元治1年)に「日本・スイス通商協約」を締結します。1867年(慶応3年)のパリ万国博覧会へ参加する為、徳川幕府は将軍徳川慶喜の名代として、弟の徳川昭武を代表とする使節団を派遣しました。博覧会へ参加した後パリから鉄道でスイスへ入国し、ベルンで大統領に謁見しました。その後、岩倉使節団の欧米視察旅行(1871年に日本出発)で、最後の訪問地となったスイスでの視察旅行を紹介します。

スイスへは、1873年(明治8年)6月19日~7月15日まで滞在し、ベルンとジュネーブを拠点にスイス各地を視察訪問しました。チューリッヒ工科大学、同市内小学校の視察及びパテック・フィリップ社工房(ジュネーブ)を見学しています。リギ登山鉄道山頂駅の開通式典にも招待されました。鉄道で国内各地を訪問し歓迎され、初夏のスイスの大自然の美しい絶景やのどかな田園風景を堪能しています。蒸気船での湖クルーズ(トウーン湖、プリエンツ湖、レマン湖)を満喫しました。

ジュネーブでは、湖岸から花火が打ち上げら楽団の演奏で大歓迎を受けています。使節団の記録と足跡は『米欧回覧実記』(久米邦武監修)として刊行されました。当時のスイスの記述では、欧州ではスイスが美しい国として評判が高く、多くの観光客が大自然の絶景を求めて訪問し、ホテル・山岳鉄道・湖船が整備されていると述べられています。また、小国でありながら独立を保持している事や、軍隊の制度、男女平等、教育水準の高さ、資源は乏しいが水力、風力、森林、草原での牧草など、大自然を有効に活用している点に注目しています。使節団一行は、歓待のスイスを最後に同年7月に帰国の途につきます。現在日本とスイスの姉妹・友好提携を結んでいる都市が、20市区町あります。代表として、日本アルプスを有する松本市と、スイスアルプス観光の基地であるグリンデルバルトが姉妹都市です。

話を筆者の旅に戻します。憧れのスイスアルプスを見学するためにインターラーケンへ向かいました。そこから山岳観光の基地であるグリンデルバルトに宿泊し、2014年7月13日の早朝に、山岳鉄道で欧州の高峰を見学に乗車しました。アイガー(Eiger:3970m)はホテルから眺められ最高でした。
到着駅のユングフラウヨッホ駅から長いトンネルを歩き、そこからエレベーターで展望台に上がります。展望台に出るとそこは青空が広がる世界でした。展望台の高さが3454mであるのでほぼ日本の富士山(3677m)と同じ高さです。
欧州一の高峰のユングフラウ(Jungfrau:4158ⅿ)やメンヒ(Moench:4107m)などの雄姿を眼前で見て感激しました。アレッチ氷河や万年雪と雄峰の光景は圧巻でした。
この素晴らしい光景を見学できたのは、山頂の天候は刻々変化しますので午前中のわずか2時間足らずでした。そして雲海で覆われてしまいました。


             ※「メンヒ」(Moench:4107m)と筆者

3時間程展望台に滞在し、持参した軽食を執りその後帰路の鉄道に乗りました。展望台の気温は-2°Cで、手袋とヤッケ・セーターを着込みました。
高峰を仰いだ達成感で満ち足りた高揚感があり満足した気持ちでした。
午後の下りの電車からは、のどかで牧歌的なスイスの田舎の光景が広がっていました。まさに「アルプスの少女ハイジ」の住む情景でした。


           ※グリンデルバルト風景(スイス)

7月の欧州は、気温は最高が21°~26°最低は12°~16°で湿度が少なくとても快適でした。
2014年7月14日からスイス訪問の最後に、ユネスコ・国連欧州本部など多くの国際機関が存立するジュネーブを訪問し、多くの民族と言語が存在する国際都市であり又とレマン湖などの観光都市でもありました。


              ※レマン湖畔(ジュネーブ)

スイス旅行中に、「2014FIFAワールドカップサッカー(ブラジル大会)」でドイツチームが4度目の優勝を達成し,ドイツ国内が最高に盛り上がっていたことが、とても印象的でした。
以上で念願であった先祖の足跡を辿る、ドイツ&スイス(18日間)の視察報告を公開して終了します。
最期にドイツで案内して頂き大変お世話になりましたF.ケーザー先生とご両親に、心より感謝し厚くお礼申し上げます。筆者の渡独の成功は、ケーザー家のご家族様のお蔭であると思います。多大なる成果が得られた実りある旅となりました。(了)

参考文献
◎「明治期のドイツ留学生」(森川潤著:雄松堂:2008年)
◎「ドイツ文化の移植基盤」(森川潤著:雄松堂:1997年)
◎「虹の懸橋」(長谷川つとむ著:冨山房:2004年)
◎「ドクトルたちの奮闘記」(石原あえか著:慶応義塾大学出版会:2012年)
◎「医学生とその時代」(東京大学医学部卒業アルバムにみる日本近代医学の歩み)―(東京大学医学部・同附属病院創立150周年記念アルバム編集委員会:中央公論新社:2008年)
◎「池田家文書の研究(45)」(池田文書研究会編:日本医史学雑誌第59巻第1号:平成25年)
◎「ベルツ賞50周年記念誌」{非売品:2014年:ベルツ賞50周年記念誌制作委員会編:日本ベーリンガーインゲルハイム(株)発行}

◎「Eine strenge  Pruefung  deutscher  Art---  Der  Alltag  japanischen  Medizinausbildung  im  Zeitalter  der  Reform  vom  1868  bis  1914---」(Hsiu-Jane  Chen著:2010年:Mattiesen  Verlag社)

◎「Brueckenbauer  ---Pioniere  des  japanisch-deutschen  Kulturaustausches---日独交流の架け橋を築いた人々--」((財)日独協会発行:2005年:非売品)

      

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