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相良潤一郎(相良知安の孫で医学博士)と相良弘道(潤一郎の長男で医学生)親子の医学の道と悲運な生涯を紹介します。

   相良知安と妻多美(タミ)との間には、一男一女があり長男の相良安道(文久元年生)と長女の相良コト(慶応四年生)が、佐賀城下水ケ江45(通称「鷹師小路」)にて誕生しました。相良安道(1861-1936)は幼名を峯一郎と名乗り、代々の医師の家系を継がず、佐賀県属判任官十等(明治22年)や佐賀郡書記専任(明治25年)、佐賀郡役所第一課長兼第二課長(明治30年)として勤務した官吏(公務員)でした。その後、書家として活躍し、「梅圃」(ばいほ)の号で多くの書画を揮毫しました。当家には「梅圃」作の書画を所蔵しています。                                                                                                 相良コト(1868-1950)は、佐賀師範学校教授の伊東龍次郎と結婚し嫁ぎました。相良潤一郎は、相良安道の長男(相良知安の孫)として、明治28(1895)年に同所にて誕生しました。明治42(1909)年、旧制佐賀中学校(現佐賀西高校)に入学し、大正3(1914)年に卒業します。潤一郎は先祖の家系である医師の道を志し、大正6(1917)年、長崎医学専門学校(現長崎大学医学部)へ進学し、大正10(1921)年に卒業しました。同年4月からも同医専に残り、田中民夫博士の指導の下で内科学を研究する。大正12(1923)年同医専が、大学に昇格したので改めて長崎医科大学に入学しする。                                            医科大学での4年間は、富田雅次教授の医化学教室で助手を務め、内科学を学びました。潤一郎の博士論文は、昭和6(1931)年に「特殊清酒酵母菌の化学」(及び外参考論文七編)を教授会へ提出し、満場一致にて通過し博士号を取得しました。昭和3(1928)年の同大学を卒業しました。同年妻菊枝(旧佐賀県有明町出身)と結婚し、翌4年に長男弘道が、同6年には次男慶二が長崎市山里町で誕生しました。次男慶二が筆者の実父に当たります。相良知安系図は、下記のPDFファイルをクリックして閲覧ください。

・相良知安系図(PDF 80KB) 

  ※相良潤一郎(医学博士・相良知安の孫:左)と相良弘道(潤一郎の長男:右)

昭和9(1934)年に創設されたばかりの「中国サナトリウム病院」(当時広島県佐伯郡廿日市町)の内科部長として赴任し、家族と共に広島市へ転居しました。同病院は結核施設の病院です。潤一郎は、結核研究に打ち込み、「日本結核病学会」会員として「ヒヨレステン性腹膜炎の一例」(昭和9年)と題する論文を『治療学雑誌』(第四巻五号:昭和9年)に発表しています。「日本結核病学会」は、大正12年に創立され、同年の第一回総会が開催された時の大会長が北里柴三郎博士でした。同病院勤務時代の昭和13(1938)年に、結核についてのドイツ語での論文(『「ヒヨレステン性腹膜炎」症例追加』)が、日本結核病学会の機関誌『結核』(昭和13年)に掲載されています。昭和12年に三男安廣が誕生しました。                              潤一郎は、同論文を「第十回日本医学会」(昭和13年開催)の第20分会(結核病学会)にて発表しました。明治初期から我が国の近代化政策による産業革命の進展と共に、昭和20年代までに、我が国の結核罹患者が都市でも農村でも急速に拡がり、結核死亡率が群を抜いて高く「国民病」・「亡国病」と呼ばれ恐れられていました。昭和14年に、「結核予防会」が創設され結核対策の強化と予防は、国家至上の要請でありました。

潤一郎は、同病院に4年間勤務した後、昭和13年に内科の「相良院」(当時広島市幟町)を開業しました。しかし翌昭和14(1939)年12月10日午後10時5分頃、広島市郊外の安芸郡坂村(現在の広島県安芸郡坂町)への往診が終わり医院への帰路に、広島市矢賀町(現在の広島市東区矢賀町)の踏切で、広島駅行きの貨物列車と衝突し自動車が大破して、不慮の死を遂げました。事故原因は運転手の不注意からで、運転手は助かりましたが、後部座席の潤一郎は即死しました。享年44歳でした。事故後は、相良医院を閉鎖して、妻菊枝は兄弟3人と共に、昭和15年に実家(川﨑家)である旧佐賀県龍王村(現佐賀県杵島郡白石町)へ帰郷しました。                                       当時の『中国新聞』(同年12月11日付け)には、大破した自動車と潤一郎の顔写真が掲載され、記事には「同博士(相良潤一郎)は、第一回東大医学部長相良知安氏の令孫。長崎医大出身。昨年(昭和13年)8月頃に、現在のところ(広島市内)に開業したもので、以前は佐伯郡廿日市病院に勤務していた温厚熱心な人で、各方面の信望厚く、入院患者も多数残されている。享年44。」と記載されている。働き盛りで事故死した祖父(潤一郎)の悲運は、涙無くしては語れない。

昭和15(1940)年に帰郷した相良一家は、長男の弘道が同年、地元の龍王村立国民学校へ編入し卒業します。翌16年に旧制鹿島中学校(現鹿島高校)へ進学したため、家族は4年間鹿島市城内の借家を借りて転居しました。弘道は、理数系科目を得意とし、運動部は柔道部に属していましたが、級友の話では「弘道君は、口数は少なく控え目の温厚な人でしたが、頭脳明晰でとりわけ理科系には強い頭脳の持ち主でした。上級学校は理系に進学するものと推察していました。柔道の時間は、弘道君をよく稽古したものでした。」とお聞きしています。運動は得意ではありませんでした。     同年12月に、日本はアメリカ等に宣戦布告し「太平洋戦争」が始まりました。戦況の悪化により「学徒戦時動員体制確立要領」(昭和18年)が制定され、「学徒勤労令」(昭和19年)により、中学生以上の生徒を工場に強制的に動員しました。佐賀県の生徒は、長崎県大村市の「大村二十一海軍航空廠」へ動員されました。昭和19年10月に同廠へ米軍機による空襲があり、旧制鹿島高等女学校からの動員生徒7名が死亡しました。

弘道は、「戦時特例法」により翌20(1945)年3月に旧制鹿島中学校を卒業しました。旧制中学校は本来5年課程ですが、戦時特例法(措置)により、4年生と5年生は3月に同時に卒業し、卒業式は中止されました。同年4月からも動員が続いていました。弘道は、父潤一郎と同じ医学への道を志し、同年6月頃に長崎医科大学附属医学専門部へ入学します。旧制鹿島中学校から長崎医専へ進学したのは、4年生からは相良弘道のみで、5年生からは3名が入学しました。これは臨時に設置された医学専門部です。しかし、同年8月9日午前11時2分に米軍機により、長崎浦上上空に原子爆弾が投下され、同医学部と附属病院で学んでいた学生・教授らと勤務していた職員・看護系職員ら合計898名もの人々が、即死し原爆の犠牲となりました。   医科大学の学生は、本来なら夏季休暇中でしたが、戦時下のため医師(軍医)を短期速成的に養成する必要があったので、夏休みを返上して授業が続けられていました。弘道も佐賀の実家に帰省していましたが、講義を受けるため原爆日の前日に、長崎市へ戻って行きました。家族が弘道を見た最後の日でした。弘道ら附属医学専門部一年生168名は、当日朝から解剖学や生化学の授業を、医専教授3名から受講していました。基礎科目の講義が5つの基礎教室講堂で行われ、原爆により教授は教壇にて、医学生は座席に整然と並んで遺骨が発見されました。弘道の享年16歳でした。

   ※「相良知安先生記念碑」除幕式」(昭和10年12月10日:東大医学部構内)

同写真には、中央の少年が弘道(6歳)、その右が潤一郎(40歳)、隣の和服姿が相良安道(74歳)です。

相良家の代々の医師の家系は、弘道の死去により止まりました。相良潤一郎と弘道親子は、不幸な事故死及び原爆死で悲運な生涯を閉じました。筆者は、祖父相良潤一郎と叔父相良弘道親子の悲運を忘れず、精進していく覚悟です。人類は、広島・長崎の悲劇を二度と繰り返してはなりません。筆者の遺族としての切実な願いです。(了)

 

 

 

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