相良知安とドイツ医学導入

 ガーゼ、レントゲン、アレルギー、ウイリス、メス、ノイローゼ、ギプス、アルバイト、カルテ(診察録)、クランケ(患者)、オペ(手術)など私たちが日常的に使い慣れた言葉が、ドイツ語であることはあまり知られていません。日本語として定着したドイツ語は、やはり医学用語が多い。

 日本とドイツが深い関係で結ばれるのは、明治初期の医学分野から始まった。我が国へドイツ医学を導入した功績者が、先祖の佐賀藩医「相良 知安」(以下知安と記述)だったことを知る人は一般に少ない。

 私(相良隆弘)は知安から数えて5代目の子孫で、相良家は江戸時代から外科を中心とした、藩医の家系です。

 知安は天保7年(1836年)、佐賀城下八戸村に藩医相良柳庵の三男として生まれました。

 「佐賀の七賢人」の江藤新平(初代司法卿)は、知安と同じ八戸村出身で竹馬の友で2歳上の先輩となる。

 知安は、16歳で藩校弘道館内生寮に入学。この年に佐賀藩は蘭学寮を設置、医学館が医学寮となり蘭学寮を併設する。
佐賀藩は弘道館生徒の中から優秀な人材を蘭学寮へ入学させた。知安もその一人として蘭学寮に進み、21歳で創設されたばかりの医学寮へ入学する。「七賢人」の大隈 重信や副島 種臣・江藤新平らも弘道館の親友として知安と学んだ。
知安にとっては、弘道館の漢学や蘭学寮でオランダ語を学ぶことより、医学寮で学問することが刺激になったようで、後年手記のなかで、「弘道館では、退学させられない程度に勉強した」と述懐している。

 藩主直正は、文武奨励と質素倹約を宣言し、藩政改革と石炭や陶磁器などの海外貿易を進める。
文化5年(1808年)のフェートン号事件以来、外国と対抗できる軍事力の増強には教育刷新による人材育成が急務とされた。
藩主直正の侍医となった知安は、文久元年(1861年)直正の信頼も厚く26歳で江戸遊学を命じられ、下総佐倉(千葉県佐倉市)の佐倉順天堂塾(現在の順天堂大学の前身)の門下に入り、創始者の佐藤泰然の養子佐藤尚中に師事した。

佐倉順天堂塾跡
※佐倉順天堂塾跡

 順天堂塾で2年学んだ知安は、門下の秀才33名のトップにあげられ塾頭として頭角を現した。

 当時の佐倉順天堂は、大阪の緒方洪庵が主宰する適々斎塾と並んで、民間蘭学塾の雄として多くの俊才を輩出した。同門には、後に知安と共に医学制度改革を遂行した福井藩の岩佐 純や長谷川泰、司馬 凌海、佐々木東洋など全国各地から集った英俊が学を競っていた。

 文久3年(1863年)に知安は長崎遊学を命ぜられ、恩師の佐藤尚中の紹介状を携えて幕府の医育機関である長崎「精得館」(現在の長崎大学医学部の前身)でオランダの名医ボードイン(1820~1885年)と出会う。
ボードインから蘭医学を学び研鑽を積んだ知安は、その学才を認められ戸塚文海が長崎を去った後任の館長に就任する。当時の蘭医学書のほとんどが、ドイツの医学原書をオランダ語に翻訳したものに気付くいていました。
事実、19世紀後半の基礎医学ではドイツ医学の進歩はめざましく、知安がそれを学びたいと思ったのも当然といえよう。
ボードインは知安の才を惜しみ、幾度もオランダのユトレヒト大学への留学を勧めたが、知安は父柳庵の老弱を理由にこれを辞した。
慶応元年(1865年)佐賀藩は、長崎に開設した英学校「致遠館」教師にフルベッキを迎え、知安や大隈重信、副島種臣、小出千之助、中野健明、中山信彬、中島永元らの藩士を入学させた。

 ※蘭医A.ボードイン(1820-1885)

 語学に堪能なフルベッキ(1830~1898年)はアメリカ国籍の宣教師で、大隈や知安らにアメリカ憲法や聖書などを英語で講義した。
佐賀藩出身で明治維新に活躍した人材の多くは、弘道館・致遠館出身の逸材であった。
薩摩・長州連合の討幕派が勢力を増大し、新時代への胎動が始まっていた。
慶応3年に帰郷した知安は、藩主直正の侍医兼好生館教導方差次(助教授)となる。慶応4年(1868年)正月直正に従い上京し、明治維新を迎える。

 当時の医学の流れは、漢方からオランダ医学へ進みさらにイギリス医学への流れが今急になっていた。
明治2年(1869年)1月に明治新政府から知安へ、「医学校取調御用掛り被仰付候事 行政官」との辞令が下りた。知安と順天堂塾で学友であった福井藩医岩佐純と共に、新生日本の医学校創設に尽力せよというものであった。

辞令「医学校取調御用掛」
※辞令「医学校取調御用掛」
(佐賀県立図書館所蔵)
 知安と岩佐純は徴士となり、大学小丞からさらに大学大丞へと任命される。知安は主に学校を、岩佐は病院を掌り、大学東校(医学校兼病院)の改革に当たる。
戊辰戦争(1868年)で傷病兵の治療に活躍したイギリス人医師ウイリスへの恩義から、新政府内の西郷隆盛や山内容堂などは、将来イギリス医学を日本医学の規範にすることを決めていた。しかし知安は、ドイツ医学こそ世界最高水準であり、日本のとるべきはドイツ医学と強く主張した。

 知安と岩佐純は徴士となり、大学小丞からさらに大学大丞へと任命される。知安は主に学校を、岩佐は病院を掌り、大学東校(医学校兼病院)の改革に当たる。
戊辰戦争(1868年)で傷病兵の治療に活躍したイギリス人医師ウイリスへの恩義から、新政府内の西郷隆盛や山内容堂などは、将来イギリス医学を日本医学の規範にすることを決めていた。しかし知安は、ドイツ医学こそ世界最高水準であり、日本のとるべきはドイツ医学と強く主張した。

この根拠として、

  1. オランダ医学書は、ドイツ医学書の翻訳が大半で、当時のドイツ医学は基礎医学で世界的発見が相次ぎ発展していた
  2. 知安の長崎留学時代の恩師で蘭医のボードインから、「ドイツ医学が世界に冠絶している。諸君はドイツ医学を学ぶべきである」とドイツ医学を強く推奨されたこと。
  3. 日本とドイツは、国情・民族性などに類似性がある

等があげられる。

「独医学導入に関する知安自筆覚書
※「独医学導入に関する知安自筆覚書」
(佐賀県立図書館所蔵)
 明治2年(1869年)、松平慶永(春獄、福井藩主)が大学別当(長官職)に任命された。同時に知安と岩佐は、大学東校(現在の東京大学医学部の前身)の管理者である大学権大丞に就任し、いよいよ活躍を始める。また運良く二人の順天堂時代の恩師、佐藤尚中が大学大博士に就任し教授の最高位に就いた。
明治2年(1869年)、松平慶永(春獄、福井藩主)が大学別当(長官職)に任命された。同時に知安と岩佐は、大学東校(現在の東京大学医学部の前身)の管理者である大学権大丞に就任し、いよいよ活躍を始める。

また運良く二人の順天堂時代の恩師、佐藤尚中が大学大博士に就任し教授の最高位に就いた。
まず知安は文教の責任者で大学知学事の山内容堂を訪問し、ドイツ医学採用を強く建議した。新政府内部では、イギリス医学採用を決定したも同然であり、イギリス派の容堂もその事情を高圧的に説明し、知安の建議を退けようとした。新政府内では、戊辰戦争の「鳥羽伏見の戦い」・「北越・会津戦争」等で、薩摩藩士らに多くの傷病兵が出た時、漢方医だった薩摩藩医は外科的処置が出来ず、傷口を焼酎で洗い縫合したので、化膿する者が続出し死者も出ました。                    そこで薩摩・長州軍は、ウイリスに外科的処置を依頼した結果、多くの傷兵の命が救われました。彼は消毒液として、過酸化マンガンを使用していました。それ以降、彼は官軍に従軍し多くの傷病兵の治療に貢献したので、薩摩・長州軍からの信頼が増大したのです。薩摩・土佐藩等は、ウイリスのイギリス医学を我が国へ導入したいと考えていました。その背後には、イギリス公使パークスがいました。老獪(ろうかい)な外交官のパークスは、薩摩藩や長州藩・土佐藩に近づき、次第に発言力を強めていきました。ドイツ医学を主張する知安に対し、パークスはイギリス派への策を弄して、知安を懐柔しようと試みましたが、知安のドイツ医学への断乎とした信念には、とうとう勝てませんでした。

 そこで政府首脳は、明治2年7月頃、相良知安と岩佐純を呼び医学採用の意見を聞くことにしました。当日に岩佐は腹痛を理由に欠席し、知安のみ出席しました。  出席した知安に対し、まず山内容堂知学事から太政官に提出された書面を見せられる。書面には「英医ウイリス儀、全国医師総教師として当年より向こう3ケ年御雇相成度候事。但し右は岩佐純、相良知安共承知に有之候也」と記載されていた。この件を尋ねられた知安は、「我々は同意などしておりません」と返答し、続けて「ウイリスを雇用して医学校総教師に取り立てるとの約束が、『医学校取調御用掛』の下命を受けた我らに何の相談も無く、山内知学事の一存で約定されているのは、正式な廟議の手続きを経ない私事である」と論破しました。

  信念を貫徹し妥協を知らない性格の知安は、三条実美太政大臣はじめ、岩倉具実、木戸孝允、大久保利通、後藤象二郎、松平春獄、秋月種樹ら政府要人の廟議の席で堂々と自説を主張しました。また知安は、「国民の生命・健康を守る医学は、最も優れた医学を用いなければなりません。先ほども申しました通り、世界に冠たる医学はドイツ医学です。」と長崎留学時代の恩師ボードインからの教えを根拠とし自説を披瀝しました。この知安の正論と信念に、山内容堂はじめ確たる反証もできず、激論は知安の勝利に終わります。 知安は回想記である『回想』(相良知安関係文書:佐賀県立図書館所蔵)のなかで、「西洋大学ノ盛ナルモノハ独逸ナリ、英仏ハ百害アッテ利ナシ、蘭ハ小国日々ニ衰ルノミ、蘭英ヲ排ケテ独ヲ採ルベシ‥‥」とドイツ医学への強い信念を述べています。

イギリス医学派は、山内容堂、西郷隆盛、大久保利通、福沢諭吉、後藤象二郎、ウイリスらであり、これに対しドイツ医学派は相良知安、岩佐純、大隈重信、副島種臣、江藤新平、フルベッキらでありました。大学東校の教授達のなかで、長谷川泰、永松東海、相良元貞、石黒忠悳らがドイツ医学派であり、坪井為春、石井信儀、島村鼎、石神良策らはイギリス医学派でした。
 四面楚歌で不利な状況であったが、知安の精力的な運動と信念にやがてフルベッキに親しい政府要人や、同郷で佐賀藩出身の大蔵大輔兼民部大輔の大隈重信、議定の鍋島直正と参議の副島種臣、会計官判事の江藤新平らも同調するようになり、次第に政府部内の空気も知安に有利となり、ついにドイツ医学採用が正式に決定した。山内容堂は免職となる。

    ※フルベッキ夫妻

『相良知安翁懐旧譚』(「医海時報」連載:明治37年)に収載(明治37年10月22日:連載 (26))の口述記載には、「容堂公が知学事を辞められてから、新たに春嶽公が大学別当となられた。そこで、伊東方成と岩佐と余の3人で、独逸プロイセン国から医学教師を雇い入れるという建白をした。しかし当時は、普仏戦争前で、政府の当事者は未だ独逸の国情に通ぜぬ人が多かったので、開成校の教師をしていた米人フルベッキ氏の保証書を添えて差し出した。然るに案の外にも何等の議論も無く故障も無く許可されて、岩佐と二人で外務省へ行って交渉す可しととの事であった。二人は直ちに外務省へ行き、時の外務卿澤三位に面会して、覚書を差し出して余等の主旨を陳述すると、元来攘夷家の澤三位は、余等の説に大に賛成されて、今日確然たる基礎の立っているのは、医学校のみだとて大変に賞揚されたのは嬉しかった。」と口述しています。

 

知安の長崎「致遠館」時代の恩師フルベッキから得た証言(「保証書」)が、「フルベッキ証言」と言われるものです。以上の知安の口述から、ドイツ医学導入が決定した後、プロイセン国からドイツ人医師を招聘するとの建白の時に、保証書(「フルベッキ証言」)を提出したのです.

 

 知安らの尽力によりドイツ医学採用が決定したが、このことがイギリス医学派の旧土佐藩閥から不満を買い、にらまれることとなる。 
そして明治3(1870)年9月13日、知安の部下に不祥事があるとの嫌疑がかかり、突然弾正台に身柄拘束・取調を受け、同年11月に投獄された。

その後裁判で冤罪が判明し、明治4(1871)年11月27日、冤罪により1年2ヵ月ぶりに復帰した知安は、明治5年(1872年)の学制発布により大学東校が第一大学区医学校(現在の東京大学医学部の前身)と改称され、同年10月8日に初代校長に就任し、明治6年(1873年)3月19日には文部省初代医務局長兼築造局長を歴任した。

「医制略則」
※「医制略則」
(佐賀県立図書館所蔵)

 

医務局長時代に知安は、ドイツ医学制度を参考に我が国の近代医学制度の基礎となる医制85ケ条からなる「医制略則」を起草する。この貴重な資料は、佐賀県立図書館の「相良知安関係資料」(108点)のなかに保存されていて閲覧できる。この医制草案は明治7年(1874年)、二代目医務局長の長与専斎(大村藩出身)に引継がれ公布された。

→相良知安と東京大学医学部
→相良元貞とベルツ博士

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