第三章

相良知安とドイツ医学導入

  慶応4年(1868年)に、前福井藩主の松平慶永(よしなが)(春獄)が大学別当(長官職)に任命されます。

 明治2年(1869年)正月23日に新政府から、「医学校取調御用掛」の辞令が、知安と福井藩医の岩佐純に下り、医学制度改革を命じられます。新生日本の医学校創設に尽力せよというものでありました。

辞令「医学校取調御用掛」
※辞令「医学校取調御用掛」
(佐賀県立図書館所蔵)

 「御雇ヲ以テ医学校取調御用掛 被仰付候事  正月  行政官」

 辞令の副書には、「即刻下阪蘭医ボードイン江引合可申候事。但し下坂之上先以合テ大坂府江釣合委細合尋候事」と記載されていた。        千種有任学校弁事と面会し、指示を仰ぐようにとの内容である。 当時大坂には、同郷で親友の大隈重信が外国官副知事として滞在していた。 

 知安はまず大隈を訪問し、辞令下命を話し、医学校創設とドイツ医学導入の自案を述べ千種弁事との面会予定を伝えました。

 そして千種弁事と面会し、千種は「大坂に滞在しているボードインと面会し、医学校での処遇する方法を考えよ」と知安へ伝えます。

 これには訳が有り、ボードインは幕末に幕府の松本良順や勝海舟から、海軍病院を創設し医学教育を行い、その業務と運営の一切をボードインに一任するとの約定をしていました。これに対しボードインは大いに喜び、そこで慶応2年に一端帰国して、病院で使用する医療器具、医薬品、書籍等を本国で購入し、一部を日本へ発送していました。ところがボードインが、日本へ再来日した慶応4年には、既に徳川幕府が瓦解していたのです。旧幕府とボードインが交わした約定書の処理に、新政府は苦慮していたのです。

 ※蘭医A.ボードイン(1820~1885)

 その為、ボードインの門下であった知安と岩佐に、ボードイン処遇の任務が任されたのです。知安は早速にボードインを訪問し、約定書にある医学校建設の方法を聞く一方、病院勤務の意思を確認しました。ボードインは「大福寺」(現大阪市天王寺区上本町)に設置される「浪華仮病院」(院長緒方惟準)への勤務に同意し、喜んで専門である眼科の治療に当たりました。ボードインの眼科の治療は、大坂市民の評判となり大繁盛しました。

 ここで知安らの奔走で、ボードインの就職が決まり処遇の一応の解決を見たのです。

 知安は主に学校を岩佐は病院を担当し、現在の東京大学医学部の前身である大学東校(医学校兼病院)の改革に当たります。

 知安と岩佐に新しい辞令が出ました。「今般医学校御取立ニ付、至急東京へ可罷下旨、被仰付候事。」
これは医学校の設立計画を進行することになったので、至急東京へ下れ、との任務です。

   大学東校の大学権大丞に就任した知安は、「独逸は医学万国秀絶いたし」との自説によりドイツ医学が世界で最も優れているとの強い信念から、日本の執るべきはドイツ医学と強く主張し、ドイツ医学導入に奔走しました。また、運良く順天堂塾時代の恩師佐藤尚中が、大学東校の大学大博士に就任し、教授の最高位に就きます。

  知安がドイツ医学導入を主張する理由としては

  1.  オランダ医学書は、ドイツ医学書の翻訳が大半で、当時のドイツ医学は、基礎医学で世界的発見が相次ぎ発展していました。
    具体的には、ウイルヒョウが細胞病理学説を発表し、コッホが破傷風菌と結核菌を発見、ナイセルが淋菌を、ガフキーがチフス菌を、クレプスがジフテリア菌を相次ぎ発見しました、
  2. 知安の長崎留学時代の恩師で蘭医のボードインから、「ドイツ医学が世界で冠絶している。諸君は独逸医学を学ぶべきである」と強くドイツ医学を推奨されたこと。
  3. 日本とドイツは、君主政体で新興国として、国情・民族性に類似性がある。
  4. 明治新政府の官僚や医学校と病院の医官は、長崎系の蘭医出身者で占められていた。

以上の理由により知安は、ドイツ医学採用を強く主張しました。

「独医学導入に関する知安自筆覚書」
※「独医学導入に関する知安自筆覚書」
(佐賀県立図書館所蔵)
 まず知安は、文教の責任者で大学知学事、前土佐藩主の山内容堂を訪問し、ドイツ医学採用を強く建議します。
しかし新政府内部の西郷隆盛や山内容堂などは、イギリス医学採用を決定したも同然であり、イギリス派の容堂もその事情を高圧的に説明し、知安の建議を退けようとしました。新政府内では、戊辰戦争で薩摩長州連合軍の傷病兵の治療に活躍した、イギリス人医師ウイリスへの恩義から、イギリス医学導入が大勢を占めていたのです。

  慶応4年(1868年)の鳥羽・伏見の戦い」や「北越・会津戦争」等の戊辰戦争で、多くの薩摩藩士らに傷病兵が出た時、漢方医だった薩摩藩医は、外科的処置が出来ず、傷口を焼酎で洗い縫合(ほうごう)したので、化膿(かのう)するのが多く、死者も出ました。
そこで薩摩・長州軍は、ウイリスに外科的治療を依頼。結果、多くの傷兵の命が救われました。彼は消毒液として、過酸化マンガンを使用していました。以降、彼は官軍の傷病兵の治療に貢献したので、薩摩・長州からの信頼が増大したのです

※英医 W.ウイリス(1837-1894)

 薩摩藩・土佐藩等は、ウイリスのイギリス医学を、我が国へ導入したいと考えていました。その背後には、イギリス公使パークスがいました。
老獪(ろうかい)な外交官のパークスは、薩摩藩や長州藩・土佐藩に近づき次第に発言力を増して、ドイツ医学を主張する知安に対し、イギリス派への策を弄して知安を懐柔しようとしましたが、知安の断固とした信念には、とうとう勝てませんでした。
そこで政府首脳は明治2年7
月頃、知安と岩佐純を呼び、医学採用の意見を聞くことにしました。当日に岩佐は腹痛を理由に欠席し、知安のみ出席しました。

出席した知安に対し、まず山内容堂知学事から太政官へ提出された書面を見せられた。書面には「英医ウイリス儀、全国医師総教師として当年より向こう3ケ年御雇相成度候事。但し右は岩佐純、相良知安共承知に有之候也」と記載されていた。この件を尋ねられた知安は、「我々は同意などしておりません」と返答し、続けて「ウイリスを雇用して医学校総教師に取り立てるとの約束が、『医学校取調御用掛』の下命を受けた自分らに何の相談も無く、山内知学事の一存で約定されているのは、正式な廟議の手続きを経ない私事である」と論破しました。

信念を貫徹し妥協を知らない性格の知安は、三条実美太政大臣はじめ、岩倉具実、木戸孝允、大久保利通、後藤象二郎、松平春嶽(まつだいらしゅんがく)、秋月種樹(あきづきたねたつ)ら政府要人の廟議の席で、堂々と自説を主張しました。また「国民の生命・健康を守る医学は、最も優れた医学を用いなければなりません。先ほども申しました通り、世界に冠たる医学はドイツ医学です。」と、長崎時代の恩師ボードインからの教えを根拠として自説を披瀝しました。
この知安の正論と信念に、山内容堂はじめ確たる反論もできず、激論は知安の勝利に終わります。当時のイギリス公使パークスも、政治的な圧力を知安にかけてイギリス医学へと懐柔しましたが、知安の信念は全く揺るがず、益々ドイツ医学導入に燃えていきます。

知安は回想記である『回想』(相良知安関係資料:佐賀県立図書館蔵)のなかで、
「西洋大学ノ盛ナルモノハ独逸ナリ、英仏ハ百害アッテ利ナシ、蘭ハ小国日々ニ哀ルノミ、蘭英ヲ排ケテ独ヲ採ルベシーーー」とドイツ医学への強い信念を述べています。

     ※『回想』部分(佐賀県立図書館蔵)

   イギリス医学派は、山内容堂、西郷隆盛、大久保利通、福沢諭吉、ウイリスらであり、これに対しドイツ医学派は知安、岩佐純、大隈重信、副島種臣、江藤新平、フルベッキらでありました。大学東校の教授達のなかで、長谷川泰・永松東海・相良元貞・石黒忠悳らがドイツ医学派であり、坪井為春・石井信義・島村鼎・石神良策らはイギリス医学派であった。

   四面楚歌で不利な状況でしたが、知安の精力的な運動と信念に、やがてフルベッキに親しい政府要人や、佐賀藩出身で大蔵大輔(おおくらだいう)の大隈重信や議定の鍋島直正、参議の副島種臣、会計官判事の江藤新平らも知安に同調するようになります。
そして次第に政府部内の空気も知安に有利となり、明治2年10月頃ついに太政官は、ドイツ医学採用を正式決定します。山内容堂は免職となります。容堂罷免の理由は、直接にはウイリス雇用が理由ではなく、別の理由(容堂の部下である仙石判学事から容堂弾劾の建白が為されていた)があったからです。

    ※フルベッキ夫妻

 『相良知安翁懐旧譚』(「医海時報」連載:明治37年)に収載(明治37年10月22日:連載(26) )の口述記載には、「容堂公が知学事を辞められてから、新たに春嶽公が大学別当となられた。そこで、伊東方成と岩佐と余の3人で、独逸プロイセン国から医学教師を雇い入れるという建白をした。   しかし当時は、普仏戦争前で、政府の当事者は未だ独逸の国情に通ぜぬ人が多かったので、開成校の教師をしていた米人フルベッキ氏の保証書を添えて差し出した。然るに案の外にも何等の議論無く故障も無く許可されて、岩佐と二人で外務省へ行って交渉し可しとの事であった。    二人は直ちに外務省へ行き、時の外務卿澤三位に面会して、覚書を差し出して余等の主旨を陳述すると、元来攘夷家の澤三位は、余等の説に大に賛成されて、今日確然たる基礎の立っているのは、医学校のみだとて大変に賞揚されたのは嬉しかった。」と口述しています。        太政官が、ドイツ医学採用を決定した明治2 (1869)年10月以降から12月にかけて、ドイツから医学教師を招聘する交渉を外務省と折衝していたのです。そして明治3(1870)年2月、外務大輔寺島宗則・大学別当松平慶永・外務卿沢宣嘉の連署で、ドイツ公使フオン・ブラントに対し、2名のドイツ人医学教師を3年間雇用する申出書を提出し、同3月に両国で雇用協定が締結された。

  知安の長崎「致遠館」時代の恩師フルベッキから得た証言(保証書)が、いわゆる「フルベッキ証言」と言われるものです。以上の知安の口述から、独逸医学導入が決定された後、プロイセン国からドイツ人医師を招聘するとの建白した時に、保証書(「フルベッキ証言」)を提出したのです。
その後ウイリスは、知安や江藤新平・大久保利通および西郷隆盛らの尽力で鹿児島へ招聘され、現在の鹿児島大学医学部の前身である、医学校兼病院を創設し、医学教育に専念しました。薩摩藩医出身で「海軍軍医制度の創設者」と称される石神良策も、師事した英医ウイリスの鹿児島への招聘に尽力した一人です。 

  しかし知安らの尽力によりドイツ医学採用が決定しましたが、このことがイギリス医学派の旧薩摩藩と旧土佐藩の官僚から、不満を買いにらまれることとなります。
この頃大隈重信や岩佐純は、旧土佐藩の陰湿な報復に注意しろ、と知安へ警告していました。
そして、明治3年(1870年)9月13日に知安の部下の森某が、大学会計で官費を消費したことに連座して嫌疑がかかり、突然身柄拘束弾正台に身柄拘束と取調を受けました。そして同年11月27日に監獄に入獄させられました。この時の弾正台長が、旧土佐藩出身の河野敏鎌(とがま)でした。

この知安の危機を救ったのが、同郷で親友の江藤新平でした。新平は、明治5年に司法卿に就任する前の明治4年に冤罪であった知安を救ったと言われています。明治3年に、鍋島直正の胃腸病が悪化するなか、知安の紹介で在京していた蘭医ボードウインや知安・伊東玄朴・伊東方成(玄朴の養子)・大石良乙・松隈元南及びアメリカ人医師ボイヤーとフランス人医師マッセらが、最大限の治療を尽くしたが、直正は明治4年(1871年)ついに逝去する。享年58歳。

  明治4年11月27日に、冤罪により1年2ケ月ぶりに釈放された知安は、知安を師と慕う峯源次郎(佐賀県伊万里出身の医師)が出獄に立ち会った。源次郎は、知安釈放の知らせを直ぐに同郷の大隈重信・副島種臣・中野健明・深川亮蔵・永松東海等を訪問して伝えた。翌日には、岩佐純と共に文部省・伊万里県出張所を訪問して伝えた。この頃知安は、郷里佐賀から上京した相良友(知安の母)や相良安道(知安の長男)ら家族と久しぶりの再会を果たした。同年11月24日に峯源次郎は、知安の長男安道を連れて浅草に遊んだとの記録が残る(多久島澄子氏翻刻・解題『峯源次郎日暦』)。この時の「相良一家」集合写真が、第一章にある画像です。

 

  ※相良知安と相良安道(知安の長男12歳)

 [明治4年於東京浅草「内田九一写真館」相良家蔵]

  話しは逸れますが、明治7年(1874年)佐賀の乱(佐賀戦争)の首謀者の責任を問われた、親友の江藤新平も司法卿であった時、かつての部下だった権大判事の、河野敏鎌(とがま)から40歳で死刑の判決をうけたのです。その後の知安は裁判で冤罪が判明し、一年二ヶ月ぶりに復帰します。

            ※「護健使」(クスシ)(『祭之記』:相良家蔵)

  知安は逮捕される時、太政官への建白書を持参していました。建白書のなかで、知安は、「医」の名称を「護健使」(クスシ)に変更しようとの考えであります。知安は、回顧録『祭之記』(上記の写真)のなかで、「護健使」(クスシ)について自己の思想を、回顧して記述している。原本は、「江藤家資料目録」(「佐賀県立図書館所蔵」)のなかで、『草案』〈「医及び医師ノ名称ヲ廃スル説・護健使」藤原(相良)知安著〉として保存されています。知安は佐賀藩で竹馬の友であった司法卿の江藤新平と、東京で頻繁に面会し交友していたので、この建白書をまず最初に江藤新平に見せたのです。


※「医及医師ノ名称ヲ廃スル説」(『草案』:江藤家資料所収)

曰く、
「医とは本来病を治療する術であるが、医学はこれだけでは足りない。新生日本の医学は、疾病予防・健康増進に進まねばならない。そのためには医の名称を改め、医務を司宰する官省を設けるべきだ」と健康増進・予防医学を強調する名称を採用したいと考えたのです。
この思想には、すでに予防医学の萌芽が見られます。知安の発想は雄大で飛躍的でしたが、先進的過ぎていて明治時代には早すぎた理想でした。知安の夢が実現したのは、国民の疾病予防・指導体制のセンターとして「保健所法」公布(昭和12年=1937年)と、国民の健康・医療を主管する国家行政組織である「厚生省」が創設(昭和13年=1938年)された68年後であった。

東京医学校本館
※旧東京医学校本館

 

 知安は「医学校取調御用掛」として、医学校を当初東京の上野公園に建設したいと考え、明治3年に恩師ボードウインを上野公園に案内し、建設したい旨を伝えました。しかしボードインからは「東京のような大都会には、その照葉樹林のすばらしさを公園として残すように」と進言したため、知安は、ボードインの進言を受け入れ、その代替地として赤門で有名な、旧加賀藩江戸屋敷跡(現在の東京大学本郷キャンパス)に医学校建設が決まりました。  

 

 明治5年(1872年)大学東校は、第一大学区医学校となり、知安は初代校長に就任。明治6年(1873年)には、初代文部省医務局長兼築造局長を歴任しました。

 医務局長時代には、ドイツ医学制度を参考に、我が国の近代医学制度の基礎となる、医制85ケ条からなる『医制略則』を起草しました。この貴重な資料は、現在佐賀県立図書館の「相良知安関係資料」(108点)のなかに保存されていて、公開閲覧できます。


 ※『医制略則(85箇条)』(佐賀県立図書館蔵)

 

この医制草案は明治7年(1874年)、二代目医務局長の長与専斎(長崎大村藩出身)に引き継がれ、ほとんど知安の原案どおり公布されました。

 

 しかし、明治6年(1873年)知安に突然、第一大学区医学校校長と文部省医務局長兼築造局長罷免、の辞令が下ります。

失脚した理由は私見ですが、

 1.知安がドイツ医学導入を強力に推進し採用したので、そのためイギリス派の旧土佐藩・旧薩摩藩出身官僚らの恨みを買ったこと

2.知安の性格や言動が、文部省当局から、医学校校長として適さない人物とされたこと

3.「明治6年の政変」(征韓論争)で下野した佐賀藩出身で親友の江藤新平を、知安が支持していたことが政府の反発を受けたのではないか

などが推測されます。

 

 

    ※知安罷免辞令(明治6年:相良家蔵)

 

    ここで、相良知安の性格について話しますと、東京大学医学部にあります記念碑文には「狷介孤峭」(けんかいこしょう)との言葉が刻まれています。

  これは、「剛穀果敢」(ごうこくかかん)で多才な人であり、しかも頑固で他人と相容れない性格の知安を、表現した言葉です。知安が、失脚した一因でもありました。佐賀弁で言う「異風者」(いひゅうもん)との言葉に近いと思います。いったん自分が正しいと信じたことは、どこまでもこれを貫徹せねば止(と)まらない、という気性(きしょう)の人でした。

  明治6年に失脚した知安は、翌明治7(1874年)から明治8(1875年)にかけて、兄弟の死去と同郷の親友である江藤新平(天保5年(1834年)出生:司法卿を歴任し参議となる)の死去と悲報が相次ぎ、悲痛な年となりました。知安の長兄である佐賀藩医相良安定(七世柳庵:文政11年(1828年)出生)が、明治7 (1874年) 2月24日東京にて病死しました。享年47。墓所は「城雲院」(佐賀市唐人2丁目)に眠る。同7年4月13日には、同じ佐賀藩出身で竹馬の友(出生地が同じ佐賀郡八戸村)の江藤新平が、佐賀戦争の結果、佐賀にて刑死しました。享年41。江藤新平の墓所は「本行寺」(佐賀市西田代1丁目)に眠る。明治8 年(1875年)10月16日に、知安の弟である相良元貞(天保12(1841)出生)が、ドイツへ医学留学中に患った病気の為明治8年に帰国しましたが、病状が回復せず東京にて死去しました。享年35。墓所は「青山霊園」(東京都港区青山)に眠る。兄弟と親友を相次いで失った知安は、深く嘆き悲しみました。

  その後の知安は文部省内の閑職で過ごし、明治18年(1885年)には、文部省御用掛として編輯局勤務を最後に、一切の官職から身を引きます。知安の全盛期は、わずか5年余りでした。明治26年4月に東京で開催された「第2回日本醫学会」に知安は参加しています。佐賀藩の医学校「好生館」出身者で在京の医師らが、「好生会」(好生館OBの東京支部同窓会)を結成し、頻繁に会合を持った。明治15年(1882年)に、「好生会」は峰源次郎と知安が幹事となり、神田明神境内内「開花楼」で開催された。好生館OBの知安・峰源次郎・永松東海・渋谷良次・秀島三圭・鐘ヶ江晴朝らが、参集し親交を深めた。
 

芝神明町
※旧芝区神明町付近(現港区浜松町)
 退官後の知安は住居を転々とし、浅草区元鳥越町9番地、本郷区弓町1丁目14番地、本郷真砂町と移転の度に困窮していき、最後は当時の芝区神明町25番地北ノ3号(現在の港区浜松町)の長屋にたどり着きました。
そこで権妻と二人で暮らしながら、医師を捨て易者として生活の糧を得ていました。医師の身分を隠し、市井(しせい)の人々相手に、筮竹を傾けながら易学で人生相談などに応じていたのです。

 知安は佐賀藩から明治政府に出仕し、東京に住んでから38年間も、妻の多美や2人の子供と別居していました。妻子を佐賀に残して、権妻(ごんさい)のお定と東京で生活していましたが、片時も家族のことを忘れる事はありませんでした。
妻の多美へ出した私信(手紙)からは、「子供に対しては父母は即ち一体のものにして、合わせて親と申すなり。子供に向かいて、お前様が申すことは、即ち私が申すことでござる」と記述しています。

✩相良知安の家族について✩ここで相良知安の家族を紹介します。

妻の相良タミ(多美)は、弘化2(1845)年11月23日出生。タミは、支家の相良福好(春榮)の長女でした。知安は、嘉永3(1850)年に相良福好(春榮)家に養子に入ります。翌嘉永4(1851)4月養父相良春榮が病死したため、知安は同年5月に家督(跡式)相続します。                    春榮の法名は、観光軒實道俊英居士。享年39。春榮の妻は寿賀で法名は、観心院俊操貞實大姉。享年73。                      知安の結婚はタミが成長した万延元(1860)年でした。タミは昭和3年9月26日没。享年83。法名は貞林院浄節妙光大姉。

知安の長男相良安道は、文久元(1861)年8月11日出生。明治25年に、県属兼佐賀郡書記(佐賀郡第一・第二課長兼務)。書道家(号は梅甫)としても活躍した。昭和11年8月16日没。享年75。法名は淳心院幽裕梅甫居士。                   妻は為千代(明治4年2月28日出生)です。夫安道は晩年書道家となったので、妻の為千代は「いつも硯を用意するのに忙しかった」と述懐しています。安道夫妻は、三男二女を授かりました。昭和24年8月29日没。享年79。 法名は玉祥院千光貞順大姉。

 知安の長女の相良コトは、慶応4(1868)年11月11日出生。伊東龍次郎(佐賀師範学校教授)と結婚。昭和25年没。享年82。

知安の妻子は、佐賀市水ケ江(鷹師小路)の居住していた。昭和7(19321)年頃に、水ヶ江(会所小路)へ転居する。

※相良安道家の家族写真(前方左より座る安道・母タミ(知安の妻)・妻為千代、後方左より恒(三男)・潤一郎(長男で医学博士)・正(二男)

晩年は知安を訪ねる人も少なく、陸軍軍医総監で枢密院顧問官の石黒忠悳博士や北里柴三郎博士など医友が変わらぬ友情を示し、援助を申し出ています。

知安妻タミ
※知安妻タミ(多美)

同郷の副島種臣や後に東京市長となる後藤新平さらに北里柴三郎博士も、ドイツ医学の大先輩である知安の近況を聞き、慰問しています。旧友らの慰問の際に、そっと金銭や生活用品を、お定に渡して援助したといわれています。
医政家として希代の才能と実行力を発揮しながら、世にいれられず、悲惨な晩年を辿ることになりました。 

勳五等双光旭日章
※勳五等双光旭日章
 石黒博士や岩佐純、池田謙斎、三宅秀そして大沢謙二ら旧友の尽力と奔走のおかげで、明治33年(1900年)には、我が国医学制度確立の功績により、勳五等双光旭日章を授与されました。
この叙勲の通知に接した知安は、人知れず喜びの情けに涙しました。
長屋暮らしで貧乏な知安には、叙勲の際の礼服が無かったため、親友の石黒博士が代理として拝受したというエピソードがあります。

 

  我が国へのドイツ医学導入は、当時の細菌学と免疫学の、画期的研究の一部に参加しうる時期に、かろうじてすべり込みできたのは、日本医学の発展に幸いしました。

 基礎医学分野での世界的発見の歴史を列記します。                               

安政5(1858)年、ドイツのウイルヒヨウが、細胞病理学説を発表し病理学を革新する。

明治11(1878)年、ドイツのコッホが、破傷風菌を発見。

明治12(1879)年、ドイツのナイセルが淋菌を発見。                               

明治13(1880)年、フランスのパスツールが、ワクチン免疫に成功。ドイツのエーベルトとガフキーが、チフス菌を発見。

明治15(1882)年、ドイツのコッホが、結核菌を発見。                                   

明治16(1883)年、ドイツのフェールアイゼンが、連鎖状球菌を、ドイツのクレプスとレフレルが、ジフテリア菌を発見。             

明治17(1884)年、ドイツのフレンケルが、肺炎菌を発見。                             

明治18(1885)年、フランスのパスツールが、狂犬病予防に成功。                          

明治20(1887)年、ドイツのワイクセルバウムが、髄膜炎菌を発見。                         

明治22(1889)年、日本の北里柴三郎が、破傷風菌の純粋培養に成功、翌年血清療法完成。

明治23(1890)年、ドイツのコッホが、ツベルクリンを創製する。                          

明治27(1894)年、日本の北里柴三郎とフランスのエルザンが、それぞれ別個にペスト菌を発見。

明治30(1897)年、日本の志賀潔が、赤痢菌を発見。                                

明治38(1905)年、ドイツのシャウデンとホフマンが、梅毒スピロヘータを発見。

明治39(1906)年、ドイツのワッセルマンが、梅毒血清反応を考案。                         

明治43(1910)年、ドイツのエールリッヒと日本の秦佐八郎が、共同でサルバルサンを創製。

明治44(1911)年、日本の野口英世が、梅毒スピロヘータの純粋培養に成功。同年、日本の鈴木梅太郎が、オリザニンを創製。               

   以上のように、当時のドイツ医学は華々しく世界的発見が相次いだのです。ここに相良知安が導入したドイツ医学は、日本医学制度確立にあたりその正当性を証明したのです。
その業績を見てみますと、明治22年(1889年)北里柴三郎博士は破傷風菌の純粋培養に成功し、翌23年にはドイツのコッホのもとで血清療法を完成します。つづいて明治27年(1894年)には、ペスト菌を発見しています。明治30年(1897年)には、志賀潔博士がコッホに学び、赤痢菌を発見し、秦佐八郎博士は、エールリッヒのもとで、サルバルサンを創製しようとしていました。

  ※北里柴三郎博士(1853-1931)

  このように知安が生存中に、すでに日本医学は、ドイツ医学導入によって、華々しい業績を挙げています。知安も、自分の夢が次々に実現しつつあることを知って、自分が果たしたドイツ医学導入という大仕事の結果に、十分満足したのではないでしょうか。
その後明治44年(1911年)には、黄熱病の研究で有名な野口英世博士が、梅毒スピロヘーターの純粋培養に成功し、同じく鈴木梅太郎博士がオリザニン(現在は、ビタミンB1)を創製するなど、世界的な発見が相次ぎ、日本の基礎医学が世界レベルとして確立しました。

  明治39年(1906年)6月10日、知安はインフルエンザにより、71年の生涯を閉じます。
知安の死去を悼んで、天皇陛下より祭粢料金百円を賜ります。その使者が、知安が住む芝神明町の長屋を訪問したとき、長屋の人々何事かとびっくりし、易者の知安が実は医師であったことに、初めて聞き驚いたそうです。知安の骨を受領するため、妻の多美が佐賀から上京した時、同棲していた権妻の「お豊」と初めて面会し、お豊は、祭祀料百円をそのまま多美に渡し、お互い慟哭の涙を流しました。多美が帰郷した後、同年8月に菩提寺である「城雲院」(佐賀市唐人2丁目)にて納骨、葬儀が挙行されました。

※権妻の名前は、これまでの通説では、「お定」でしたが、新たな史料【「重用箪笥」(相良知安文書)=知安とお豊が、晩年に芝区神明町の長屋で生活した家財品等を記載したもので、相良知安自筆の史料であり「お豊」の記述が確認された。よって同棲した権妻の名前を「お豊」に訂正します。

相良知安墓所
※相良知安墓所(城雲院)
 知安の墓所は、佐賀市唐人二丁目の「城雲院」に眠っています。平成18年(2006年)には、知安没後100年を迎えました。法名は「鐵心院覚道知安居士」です。これは、鐵の心即ち信念を持ちながら、信じる道を生き抜いた知安の生涯そのものを表していると思います。
知安は死んでも、彼の精神はドイツ医学のなかに生き続けています。知安のまいた種は、我が国で見事に発芽・成長し、そして花を咲かせて実を結びました。

 平成15年(2003年)、知安の郷土佐賀市で「相良知安展」が、初開催され大好評で終了しました。その時の、「トークショー」は、佐賀市立図書館開館以来の、満員となり県民の知安への関心の高さに感激しました。

佐賀城本丸歴史館
※佐賀城本丸歴史館

 平成16年8月にオープンした「佐賀城本丸歴史館」は、入場が無料で年中無休、夜6時まで開館しているのが魅力で、観光客で大盛会となっています。
この展示のなかで、「幕末・明治の佐賀の群像たち」コーナーには、佐賀の七賢人を始め郷土佐賀から輩出した、多くの人物が紹介されています。知安も多くの紹介と展示がなされていますので、ご観覧をお願い申し上げます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 ※「相良知安先生記念碑」落成式(昭和10年12月8日)

 昭和10(1935)年に「相良知安記念碑」建立の気運が佐賀県人から高まり、全国の医師等を対象に寄附を呼びかけ、当時三千円の費用で完成しました。発起人には、大隈信幸侯爵、鍋島直映侯爵、眞崎大将ら佐賀県出身者及び長与東大総長、親友の石黒忠悳博士、入澤達吉博士、女医の吉岡弥生ら100名が名を連ねました。除幕式は、昭和10年12月8日に挙行されました。写真左には、文部省と東京帝国大学関係者が、写真中央前列には、相良家より相良知安の長男相良安道(和服姿)、その左に相良知安の孫に当たる相良潤一郎(医学博士)と和服の右が孫の相良正そして少年は、相良知安の曾孫の相良弘道(当時6歳)が参列しました。写真左には、佐賀県出身者で発起人らが多数参列しました。

  知安は、当時医学校と病院を上野公園に建設したい構想を持っていましたが、恩師ボードウイン先生からその照葉樹林のすばらしさから、「都市公園として残すように」とのアドバイスがあり、その代替地として加賀藩江戸屋敷跡である現在の東京大学本郷キャンパスに決まりました。
その経緯(いきさつ)から記念碑は、上野公園不忍池を背後に臨む、東大池之端門側に建立されたのです。
碑文は石黒忠悳(いしぐろ ただのり)博士の題額と入澤達吉東大名誉教授の選文があり、高さ約4.3メートル、幅は約1.8メートルの大きな記念碑です。
しかし医学部看護宿舎裏の位置にあたり、医学部の建物が建ち並ぶ陰に、ひっそりと樹木に隠れた目立たない状態でした。

  東京大学医学部の創立は、安政5年(1858年)「幕府種痘所」が、東京神田お玉が池の、幕府勘定奉行であった川路聖謨(かわじ としあきら)宅に、設置された年とされています。その150年周年が平成20年(2008年)に当たります。
東京大学医学部は過去に節目の記念の年には、記念行事や事業を実施しています。


※相良知安先生記念碑(移転後)
 創立150周年の記念事業として是非、「相良知安記念碑」を日の当たる人目につく場所への移転を、子孫である私たちを始め現状を杞憂する関係者が、東大医学部附属病院当局へ請願をしていたのです。
その努力が実り、平成19年6月に永井東大前病院長や病院当局のご尽力により、東大医学部附属病院の新入院棟A玄関前の緑の一角に移転いたしました。日が当たる場所で人通りも多く、緑のスペースで好位置となりました。子孫一同これ以上の喜びはございません。
東大病院当局の英断に感謝いたします。

 

 

 

【参考資料】

 ◎ 『相良知安翁懐旧譚』(『医海時報』明治37年連載)

  ◎鍋島直正「御診療日記」論文(青木歳幸著:2015年)

  ◎『峰源次郎日歴』(多久島澄子著翻刻・解題:『西南諸藩医学教育の研究』:佐賀大学地域学歴史文化研究センター:2015年)

 ◎楠本イネと石神良策の交友」(太田妙子著:『鳴滝紀要』第26号:2016年)

◎「おいが異風かんた-相良知安-」(竹原元凱著:西日本新聞連載:2002年 6月~9月)

◎「明治維新西洋医学導入過程の再検討」(尾﨑耕司著:「大手前大学論集」第13号:2013年) 

◎「明治「医制」再考」(尾﨑耕司著:「大手前大学論集」第16号:2016年) 

◎「ドイツ医学の採用に関する三つの疑問をめぐって」(森川潤著:「日本医史学雑誌」第39巻5号1993年)

◎『古写真こぼれ話(1)』(高橋信一著:渡辺出版発行:2014年)                                  ◎『東京大学医学部百年史』(小川鼎三編:東大出版会発行:昭和42年)

 

(了)

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