第三章

相良知安とドイツ医学導入

辞令「医学校取調御用掛」
※辞令「医学校取調御用掛」
(佐賀県立図書館所蔵)

 慶応4年(1868年)に、前福井藩主の松平慶永(よしなが)(春獄)が大学別当(長官職)に任命されます。

 明治2年(1869年)新政府から、「医学校取調御用掛」の辞令が、知安と福井藩医の岩佐純に下り、医学制度改革を命じられます。新生日本の医学校創設に尽力せよというものでありました。
 知安は主に学校を岩佐は病院を担当し、現在の東京大学医学部の前身である大学東校(医学校兼病院)の改革に当たります。

 大学東校の大学権大丞に就任した知安は、「独逸は医学万国秀絶いたし」との自説によりドイツ医学が世界で最も優れているとの強い信念から、日本の執るべきはドイツ医学と強く主張し、ドイツ医学導入に奔走しました。また、運良く順天堂塾時代の恩師佐藤尚中が、大学東校の大学大博士に就任し、教授の最高位に就きます。

 知安がドイツ医学導入を主張する理由としては

  1.  オランダ医学書は、ドイツ医学書の翻訳が大半で、当時のドイツ医学は、基礎医学で世界的発見が相次ぎ発展していました。
    具体的には、ウイルヒョウが細胞病理学説を発表し、コッホが破傷風菌と結核菌を発見、ナイセルが淋菌を、ガフキーがチフス菌を、クレプスがジフテリア菌を相次ぎ発見しました、
  2. 大学南校教頭で政府の顧問であった、恩師フルベッキの「自然科学のすべて、特に医学ではドイツ医学が世界に冠絶している。日本はドイツ医学を採用すべきある」と公正冷静で広い視野からの証言を得たこと。
  3. 日本とドイツは、君主政体で新興国として、国情・民族性に類似性がある。
  4. 明治新政府の官僚や医学校と病院の医官は、長崎系の蘭医出身者で占められていた。

以上の理由により知安は、ドイツ医学採用を強く主張しました。

「独医学導入に関する知安自筆覚書」
※「独医学導入に関する知安自筆覚書」
(佐賀県立図書館所蔵)
 まず知安は、文教の責任者で大学知学事、前土佐藩主の山内容堂を訪問し、ドイツ医学採用を強く建議します。
 しかし新政府内部の西郷隆盛や山内容堂などは、イギリス医学採用を決定したも同然であり、イギリス派の容堂もその事情を高圧的に説明し、知安の建議を退けようとしました。新政府内では、戊辰戦争で薩摩長州連合軍の傷病兵の治療に活躍した、イギリス人医師ウイリスへの恩義から、イギリス医学導入が大勢を占めていたのです。

 慶応4年(1868年)の鳥羽・伏見の戦い」で、多くの薩摩藩士らに傷病兵が出た時、漢方医だった薩摩藩医は、外科的処置が出来ず、傷口を焼酎で洗い縫合(ほうごう)したので、化膿(かのう)するのが多く、死者も出ました。
 そこで薩摩・長州軍は、ウイリスに外科的治療を依頼。結果、多くの傷兵の命が救われました。彼は消毒液として、過酸化マンガンを使用していました。
 以降、彼は官軍の傷病兵の治療に貢献したので、薩摩・長州からの信頼が増大したのです。

 薩摩藩らは、ウイリスのイギリス医学を、我が国へ導入したいと考えていました。その背後には、イギリス公使パークスがいました。
 老獪(ろうかい)な外交官のパークスは、薩摩藩や長州藩・土佐藩に近づき次第に発言力を増して、ドイツ医学を主張する知安に対し、イギリス派への策を弄して知安を懐柔しようとしましたが、知安の断固とした信念には、とうとう勝てませんでした。
 そこで政府首脳は明治2年、知安と岩佐純を呼び、医学採用の意見を聞くことにしました。当日に岩佐は腹痛を理由に欠席し、知安のみ出席しました。

 信念を貫徹し妥協を知らない性格の知安は、三条実美太政大臣はじめ、岩倉具実、木戸孝允、後藤象二郎、松平春嶽(まつだいらしゅんがく)、秋月種樹(あきづきたねたつ)ら政府要人の廟議の席で、堂々と自説を主張しました。
 知安はまず、『ウイリスを雇用し医学校総教師にとりたてるとの約束が、「医学校取調御用掛」の下命を受けた自分に何の相談もなく、山内知学事の一存で約定されているのは、正式な廟議の手続きを経ない私事である』ことを論破しました。
 この知安の正論と信念に、山内容堂はじめ誰も反論できず、激論は知安の勝利に終わります。当時のイギリス公使パークスも、政治的な圧力を知安にかけてイギリス医学へと懐柔しましたが、知安の信念は全く揺るがず、益々ドイツ医学導入に燃えていきます。

 知安は回想記である『回想』(相良家文書二:佐賀県立図書館蔵)のなかで、
 「西洋大学ノ盛ナルモノハ独逸ナリ、英仏ハ百害アッテ利ナシ、蘭ハ小国日々ニ哀ルノミ、蘭英ヲ排ケテ独ヲ採ルベシーーー」
とドイツ医学への強い信念を述べています。

 イギリス医学派は、山内容堂、西郷隆盛、大久保利通、福沢諭吉らであり、これに対しドイツ医学派は知安、大隈重信、副島種臣、江藤新平、フルベッキらでありました。大学東校の教授達のなかで、長谷川泰・永松東海・相良元貞・石黒忠悳らがドイツ医学派であり、坪井為春・石井信義・島村鼎らはイギリス医学派であった。

  四面楚歌で不利な状況でしたが、知安の精力的な運動と信念に、やがてフルベッキに親しい政府要人や、佐賀藩出身で大蔵大輔(おおくらだいう)の大隈重信や議定の鍋島直正、参議の副島種臣、会計官判事の江藤新平らも知安に同調するようになります。
 そして次第に政府部内の空気も知安に有利となり、明治2年10月、ついに太政官はドイツ医学採用を正式決定します。これが契機となり、山内容堂は免職となります。
 
その後ウイリスは、知安や江藤新平・大久保利通および西郷隆盛らの尽力で鹿児島へ招聘され、現在の鹿児島大学医学部の前身である、医学校兼病院を創設し、医学教育に専念しました。薩摩藩医出身で「海軍軍医制度の創設者」と称される石神良策も、師事した英医ウイリスの鹿児島への招聘に尽力した一人です。 

 しかし知安らの尽力によりドイツ医学採用が決定しましたが、このことがイギリス医学派の旧薩摩藩と旧土佐藩の官僚から、不満を買いにらまれることとなります。
 この頃大隈重信や岩佐純は、旧土佐藩の陰湿な報復に注意しろ、と知安へ警告していました。
 そして、明治3年(1870年)9月に知安の部下の森某が、大学会計で官費を消費したことに連座して嫌疑がかかり、突然弾正台に捕らわれ投獄されます。この時の弾正台長が、旧土佐藩出身の河野敏鎌(とがま)でした。

 この知安の危機を救ったのが、同郷で親友の江藤新平でした。新平は、明治5年に司法卿に就任する前の明治4年に冤罪であった知安を救ったと言われています。明治3年に、鍋島直正の胃腸病が悪化するなか、知安の紹介で在京していた蘭医ボードウインや知安・伊東玄朴・伊東方成(玄朴の養子)・大石良乙・松隈元南及びアメリカ人医師ボイヤーとフランス人医師マッセらが、最大限の治療を尽くしたが、直正は明治4年(1871年)ついに逝去する。享年58歳。

  話しは逸れますが、明治7年(1874年)佐賀の乱(佐賀戦争)の首謀者の責任を問われた、親友の江藤新平も司法卿であった時、かつての部下だった権大判事の、河野敏鎌(とがま)から40歳で死刑の判決をうけたのです。その後の知安は裁判で冤罪が判明し、一年二ヶ月ぶりに復帰します。

          ※「護健使」(クスシ)(『祭之記』:相良家蔵)

 知安は逮捕される時、太政官への建白書を持参していました。建白書のなかで、知安は、「医」の名称を「護健使」(クスシ)に変更しようとの考えであります。知安は、回顧録『祭之記』(上記の写真)のなかで、「護健使」(クスシ)について自己の思想を、回顧して記述している。原本は、「江藤家資料目録」(「佐賀県立図書館所蔵」)のなかで、『草案』〈「医及び医師の名称を廃スル説・護健使」藤原(相良)知安著〉として保存されています。知安は佐賀藩で竹馬の友であった司法卿の江藤新平と、東京で頻繁に面会し交友していたので、この建白書をまず最初に江藤新平に見せたのです。
 曰く、

 「医とは本来病を治療する術であるが、医学はこれだけでは足りない。新生日本の医学は、疾病予防・健康増進に進まねばならない。そのためには医の名称を改め、医務を司宰する官省を設けるべきだ」と健康増進・予防医学を強調する名称を採用したいと考えたのです。
 この思想には、すでに予防医学の萌芽が見られます。知安の発想は雄大で飛躍的でしたが、先進的過ぎていて明治時代には早すぎた理想でした。知安の夢が実現したのは、国民の疾病予防・指導体制のセンターとして「保健所法」公布(昭和12年=1937年)と、国民の健康・医療を主管する国家行政組織である「厚生省」が創設(昭和13年=1938年)された68年後であった。

東京医学校本館
※旧東京医学校本館

 知安は、医学校を東京上野公園に建設したいと考えましたが、恩師ボードウインが、その照葉樹林のすばらしさに公園として残すよう進言したため、その代替地として赤門で有名な、旧加賀藩江戸屋敷跡(現在の東京大学本郷キャンパス)に医学校建設が決まりました。  

 明治5年(1872年)大学東校は、第一大学区医学校となり、知安は初代校長に就任。明治6年(1873年)には、初代文部省医務局長兼築造局長を歴任しました。

 医務局長時代には、ドイツ医学制度を参考に、我が国の近代医学制度の基礎となる、医制85ケ条からなる『医制畧則』を起草しました。この貴重な資料は、現在佐賀県立図書館の「相良知安関係資料」(108点)のなかに保存されていて、公開閲覧できます。


 ※『医制略則(85箇条)』(佐賀県立図書館蔵)

 この医制草案は明治7年(1874年)、二代目医務局長の長与専斎(長崎大村藩出身)に引き継がれ、ほとんど知安の原案どおり公布されました。

 しかし、明治6年(1873年)知安に突然、第一大学区医学校校長と文部省医務局長兼築造局長罷免、の辞令が下ります。

失脚した理由は私見ですが、

  1. 知安がドイツ医学導入を強力に推進し採用したので、そのためイギリス派の旧土佐藩・旧薩摩藩出身官僚らの恨みを買ったこと
  2. 知安の性格や言動が、文部省当局から、医学校校長として適さない人物とされたこと
  3. 「明治6年の政変」(征韓論争)で下野した佐賀藩出身で親友の江藤新平を、知安が支持したことが政府の反発を受けたのではないか

などが推測されます。

 

   ※知安罷免辞令(明治6年:相良家蔵)

ここで、相良知安の性格について話しますと、東京大学医学部にあります記念碑文には「狷介孤峭」(けんかいこしょう)との言葉が刻まれています。

 これは、「剛穀果敢」(ごうこくかかん)で多才な人であり、しかも頑固で他人と相容れない性格の知安を、表現した言葉です。知安が、失脚した一因でもありました。佐賀弁で言う「異風者」(いひゅうもん)との言葉に近いと思います。いったん自分が正しいと信じたことは、どこまでもこれを貫徹せねば止(と)まらない、という気性(きしょう)の人でした。

  その後の知安は文部省内の閑職で過ごし、明治18年(1885年)には、文部省御用掛として編輯局勤務を最後に、一切の官職から身を引きます。知安の全盛期は、わずか5年余りでした。明治26年4月に東京で開催された「第2回日本醫学会」に知安は参加しています。佐賀藩の医学校「好生館」出身者で在京の医師らが、「好生会」(好生館OBの東京支部同窓会)を結成し、頻繁に会合を持った。明治15年(1882年)に、「好生会」は峰源次郎と知安が幹事となり、神田明神境内内「開花楼」で開催された。好生館OBの知安・峰源次郎・永松東海・渋谷良次・秀島三圭・鐘ヶ江晴朝らが、参集し親交を深めた。
 

芝神明町
※旧芝区神明町付近(現港区浜松町)
 退官後の知安は住居を転々とし、浅草区元鳥越町、本郷区弓町、本郷真砂町と移転の度に困窮していき、最後は当時の芝区神明町(現在の港区浜松町)の長屋にたどり着きました。
 そこで権妻と二人で暮らしながら、医師を捨て易者として生活の糧を得ていました。医師の身分を隠し、市井(しせい)の人々相手に、筮竹を傾けながら易学で人生相談などに応じていたのです。
 知安は佐賀藩から明治政府に出仕し、東京に住んでから38年間も、妻の多美や2人の子供と別居していました。妻子を佐賀に残して、権妻(ごんさい)のお定と東京で生活していましたが、片時も家族のことを忘れる事はありませんでした。
 妻の多美へ出した私信(手紙)からは、「子供に対しては父母は即ち一体のものにして、合わせて親と申すなり。子供に向かいて、お前様が申すことは、即ち私が申すことでござる」と記述しています。
晩年は知安を訪ねる人も少なく、陸軍軍医総監で枢密院顧問官の石黒忠悳博士が変わらぬ友情を示し、援助を申し出ています。
知安妻タミ
※知安妻タミ(多美)

  同郷の副島種臣や後に東京市長となる後藤新平さらに北里柴三郎博士も、ドイツ医学の大先輩である知安の近況を聞き、慰問しています。旧友らの慰問の際に、そっと金銭や生活用品を、お定に渡して援助したといわれています。
 医政家として希代の才能と実行力を発揮しながら、世にいれられず、悲惨な晩年を辿ることになりました。 

勳五等双光旭日章
※勳五等双光旭日章
 石黒博士や岩佐純、池田謙斎、三宅秀そして大沢謙二ら旧友の尽力と奔走のおかげで、明治33年(1900年)には、我が国医学制度確立の功績により、勳五等双光旭日章を授与されました。
 この叙勲の通知に接した知安は、人知れず喜びの情けに涙しました。
 長屋暮らしで貧乏な知安には、叙勲の際の礼服が無かったため、親友の石黒博士が代理として拝受したというエピソードがあります。

  我が国へのドイツ医学導入は、当時の細菌学と免疫学の、画期的研究の一部に参加しうる時期に、かろうじてすべり込みできたのは、日本医学の発展に幸いしました。
 その業績を見てみますと、明治22年(1889年)北里柴三郎博士は破傷風菌の純粋培養に成功し、翌23年にはドイツのコッホのもとで血清療法を完成します。つづいて明治27年(1894年)には、ペスト菌を発見しています。明治30年(1897年)には、志賀潔博士がコッホに学び、赤痢菌を発見し、秦佐八郎博士は、エールリッヒのもとで、サルバルサンを創製しようとしていました。

 このように知安が生存中に、すでに日本医学は、ドイツ医学導入によって、華々しい業績を挙げています。知安も、自分の夢が次々に実現しつつあることを知って、自分が果たしたドイツ医学導入という大仕事の結果に、十分満足したのではないでしょうか。
 その後明治44年(1911年)には、黄熱病の研究で有名な野口英世博士が、梅毒スピロヘーターの純粋培養に成功し、同じく鈴木梅太郎博士がオリザニン(現在は、ビタミンB1)を創製するなど、世界的な発見が相次ぎ、日本の基礎医学が世界レベルとして確立しました。

 明治39年(1906年)6月10日、知安はインフルエンザにより、71年の生涯を閉じます。
 知安の死亡をいたんで、天皇陛下より祭粢料金百円を賜ります。その使者が、知安が住む芝神明町の長屋を訪問したとき、長屋の人々何事かとびっくりし、易者の知安が実は医師であったことに、初めて聞き驚いたそうです。

相良知安墓所
※相良知安墓所(城雲院)
 知安の墓所は、佐賀市唐人二丁目の「城雲院」に眠っています。平成18年(2006年)には、知安没後100年を迎えました。法名は「鐵心院覚道知安居士」です。これは、鐵の心即ち信念を持ちながら、信じる道を生き抜いた知安の生涯そのものを表していると思います。
 知安は死んでも、彼の精神はドイツ医学のなかに生き続けています。知安のまいた種は、我が国で見事に発芽・成長し、そして花を咲かせて実を結びました。

 平成15年(2003年)、知安の郷土佐賀市で「相良 知安展」が、初開催され大好評で終了しました。その時の、「トークショー」は、佐賀市立図書館開館以来の、満員となり県民の知安への関心の高さに感激しました。

佐賀城本丸歴史館
※佐賀城本丸歴史館
 平成16年8月にオープンした「佐賀城本丸歴史館」は、入場が無料で年中無休、夜6時まで開館しているのが魅力で、観光客で大盛会となっています。
 この展示のなかで、「幕末・明治の佐賀の群像たち」コーナーには、佐賀の七賢人を始め郷土佐賀から輩出した、多くの人物が紹介されています。知安も多くの紹介と展示がなされていますので、ご観覧をお願い申し上げます。
 昭和10年(1935年)に「相良知安先生記念碑」建立の気運が、在京佐賀県人から高まり、全国の医師等を対象に寄付を呼びかけ、当時三千円の費用で完成しました。
 発起人には、大隈信幸侯爵、鍋島直映男爵、眞崎大将ら佐賀県出身者及び長与東大総長、親友の石黒博士や入澤博士、女医の吉岡弥生ら100名余が名を連ねました。
昭和10年 相良知安先生記念碑落成式
※相良知安先生記念碑落成式(昭和10年)

  知安は、当時医学校と病院を上野公園に建設したい構想を持っていましたが、恩師ボードウイン先生からその照葉樹林のすばらしさから、「公園として残すように」とのアドバイスがあり、その代替地として加賀藩江戸屋敷跡である現在の東京大学本郷キャンパスに決まりました。
 その経緯(いきさつ)から記念碑は、上野公園不忍池を背後に臨む、東大池之端門側に建立されたのです。
 碑文は石黒忠悳(いしぐろ ただのり)博士の題額と入沢達吉東大名誉教授の選文があり、高さ約4.3メートル、幅は約1.8メートルの大きな記念碑です。
 しかし医学部看護宿舎裏の位置にあたり、医学部の建物が建ち並ぶ陰に、ひっそりと樹木に隠れた目立たない状態でした。

 東京大学医学部の創立は、安政5年(1858年)「幕府種痘所」が、東京神田お玉が池の、幕府勘定奉行であった川路聖謨(かわじ としあきら)宅に、設置された年とされています。その150年周年が平成20年(2008年)に当たります。
 東京大学医学部は過去に節目の記念の年には、記念行事や事業を実施しています。

相良知安先生記念碑(移転後)
※相良知安先生記念碑(移転後)
 創立150周年の記念事業として是非、「相良知安記念碑」を日の当たる人目につく場所への移転を、子孫である私たちを始め現状を杞憂する関係者が、東大医学部附属病院当局へ請願をしていたのです。
その努力が実り、平成19年6月に永井東大前病院長や病院当局のご尽力により、東大医学部附属病院の新入院棟A玄関前の緑の一角に移転いたしました。日が当たる場所で人通りも多く、緑のスペースで好位置となりました。子孫一同これ以上の喜びはございません。
 東大病院当局の英断に感謝いたします。

 

【参考資料】
「相良知安翁懐旧譚」(『医海時報』明治37年連載)

「鍋島直正『御診療日記』」論文(青木歳幸著:2015年)

「峰源次郎日歴翻刻」(多久島澄子著:『西南諸藩医学教育の研究』:佐賀大学地域学歴史文化研究センター:2015年)

「楠本イネと石神良策の交友」(太田妙子著:『鳴滝紀要』第26号:2016年)

 

(了)

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