ガーゼ、レントゲン、アルバイト、カルテ(診察録)、クランケ(患者)、オペ(手術)など私たちが日常的に使い慣れた言葉が、ドイツ語であることはあまり知られていません。戦後もしばらく、医師のカルテはドイツ語で書かれていました。
日本とドイツが深い関係で結ばれるのは、明治初期の医学分野から始まりました。
我が国へのドイツ医学導入に尽力し、第一大学区医学校(現在の東京大学医学部)学長及び初代文部省医務局長兼築造局長として、我が国近代医学制度創設に貢献した功績者が、先祖の佐賀藩医「相良 知安」(以下知安と記述)でした。
※『祭之記』の冒頭(知安の回顧録:相良家蔵)
相良家のルーツは、遠祖頼景が、元々遠州相良(現静岡県相良町)を所領していた。その地名から相良を名乗り、建久元年(1190年)に、右大将源頼朝より九州肥後国球麻郡(現人吉市)を賜り下向した。代々球麻の領主として頼景より12代の孫相良右衛門大夫長滋の時、佐賀の巨瀬ノ荘渕村に移住し、その後杵島郡南郷田上村に移住した。相良知安の七世祖で寛永18(1641)年出生の相良長安(初代柳庵)は、明暦の末長崎に留学し大通詞西吉兵衛に就いて外科を学ぶこと十余年、遂に南蛮流外科(ポルトガルフェレイラ外科)及び紅毛流外科(オランダ医カスパル流外科)の西洋医学二流の一子相伝を修めた。鍋島志摩家の家来となり、佐賀城下に居住して開業し、以来佐賀藩に世禄世業の外科医として仕え、扶持9石を賜り、その後9石加増し合計18本石となる。
相良本家(相良柳庵家)の系譜は、①相良長安(初代柳庵)-明暦時代、②相良伊安(二世柳庵)-延宝時代、③相良正安(三世柳庵)-享保時代、④相良徳安(四世柳庵)-寛政時代、⑤相良安昌(五世柳庵)-文化時代、⑥相良長美(六世柳庵)-天保時代、⑦相良安定(七世柳庵)-慶応時代となる。代々「柳庵」を名乗った。 三支家として(ア)相良養伯家、(イ)相良養元家、(ウ)相良柳蔭家がある。
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二世柳庵(相良伊安)は、延宝6年午3月出生、延享元年子11没。三世柳庵(相良正安)は、始源太郎 中比柳可 宝栄元年12月出生、安永3年2月没。深堀家より召し出され、鍋島重茂公(鍋島藩七代藩主)侍医となり、25人扶持を賜る。四世柳庵(相良徳安)は、始長太郎 中比長格 元文4年9月出生、文化10年7月没。鍋島治茂公(鍋島藩八代藩主)侍医となり、6人扶持を加賜る。五世柳庵(相良安昌)は、字源太郎 始元壽 中比柳伯 安永2年10月出生、文政4年6月没。鍋島斉直公(鍋島藩九代藩主)侍医となり、3人扶持加賜る。世録合わせて34人扶持となる。六世柳庵(相良長美=宣安)は、字亀次郎 始柳意 中比柳伯 始安冨 中比宣安 享和3年10月出生、元治元年6月没。若殿の鍋島茂實(直大)公(鍋島藩11代藩主)侍医となる。七世柳庵(相良安定)は、字信一郎、始文友、中比寛斎、始公安。文政11年9月25日出生。明治24年2月24日没。鍋島直正公(鍋島藩10代藩主)侍医となる。
『相良知安翁懐旧譚』(「医海時報」:明治37年)によれば、「二代目の相良伊安は、13歳の時振り袖姿で代診したという話しだ、三代目は相良正安で、家声盛んとなり推挙されて侍医となり、本家支家合わせて四家となり繁盛した。分家の養伯、柳蔭、養元ら各々扶持を賜り、一家大いに栄えた。四代目の相良徳安は、徳人で藩主の信用を大いに得ていたので、藩主江戸参勤の時は、いつも供奉し前後13回一度も交替することがなかったそうだ。 五代目の相良安昌は、当時長崎に蘭医シーボルトが来日したため、安昌は佐野儒仙と共に長崎伝習を命ぜられた。孺仙は故佐野常民伯の養父である。長崎に楢林流が興ったのも、やはりこの時代である。 六代目の相良宣安(長美)は、中島元興家より養子に入る。この時代にモーニッケ(注:「牛痘種痘の父」と呼ばれ、蘭医として長崎出島に来日)やファン・デン・ブルック(注:長崎出島に来日した蘭医で耳鼻科の大家)が来日した。 七代目の相良安定は、正七位の位階を賜り、宮内少侍医として宮中に仕えた。ポンペ氏やボードイン氏の来日は、この頃で安定もボードインに師事して伝習を命ぜられた。」と、相良知安が晩年に口述した内容が掲載されている。
さらに『相良知安翁懐旧譚』には、「祖先柳庵長安その一子相伝の外科を伝えて、七代まで200年になるが、その間当家は家柄と称して固く他の門に入ることを許さず、又他の師弟を門弟として採らない掟であった。真に一家相伝の芸として承継された。」と口述している。
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※相良 柳庵系図(冒頭部:相良家蔵)
相良安昌(五世柳庵)は藩命により、長崎在住の商館附医師シーボルトに西洋医学を学ぶため、佐野儒仙(佐野常民の祖父)と共に長崎医学伝習を命ぜられた。
相良家は、江戸時代から外科中心の佐賀藩医の家系で、相良知安は天保7年(1836年)2月16日に、藩医相良柳庵(長美)の三男として、肥前国佐賀郡八戸村(現在佐賀市八戸)に生まれました。 幼名は広三郎と名乗り、文慶から長じて弘庵(こうあん)そして知安(ちあん)と名乗りました。兄弟は四男一女であり、長男安定ー次男武重ー三男知安ー四男元貞で、長女が津茂です。
※「相良一家」(明治5年:於東京浅草「内田九一写真館」:相良家蔵)
右から伊東武重(知安の次兄で伊東家へ養子に出る)・相良安道(知安の長男12歳)・相良友(母)・相良知安・相良安定(知安の長兄)・伊東祐穀(武重の長男13歳)。四男元貞はドイツ医学留学中。長女津茂は不在。父相良長美(柳庵)は既に死去している。
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相良知安の父相良長美(六世柳庵)は、享和3年(1803年)10月2日出生。幼名は亀次郎、そして柳伯・宣安から長美と名乗る。 天保6年(1835年)佐賀藩「医学寮指南方」に就任する。天保7年(1836年)に「勤役中唐人御取締ニ付長崎出張」を仰せ付かる。 嘉永4年(1851年)の『佐賀藩医業免札姓名簿』(648名の医師名簿)には、同年に25番目に「外科相良柳庵」と記載され医業免札を受けている。 嘉永5年(1852年)より長男安定と共に伊万里へ5年間転居する。 安政3年(1856年)に佐賀藩十代藩主鍋島直正公お側医に召され、同時に若殿(茂實公=鍋島直大=第11代藩主)の御附医師(侍医)となる。 安政6年(1859年)に「好生館掛合」に就任し、恒姫様(直正公次女)療養方兼帯を仰せ付かる。 万延元年(1860年)若殿公の初めての江戸出府にお供する。 文久2年(1862年)若殿にお供し帰藩する。 元治元年(1864年)長美の病気療養中につき、直正公より養生料として正銀二四〇目を拝領する。
また茂實公より御筆書などを拝領した時は大変感激する。 家禄は三四人扶持。妻は中野氏の出身で名は友。四男一女を授かる。 元治元年6月12日に62歳で死去。 墓所は「城雲院」(佐賀市唐人2丁目)に眠る。法名は槐樹軒一夢常安居士。
ここで相良長美(六世柳庵)とその長男相良安定(七世柳庵)が、何故に嘉永5(1852)年から伊万里へ5年間転居した理由が判りました。理由は『相良知安翁懐旧譚(8)』(本HPにページを公開していますので閲覧下さい)によると、「①5代目の相良安昌(五世柳庵)は、佐野儒仙と長崎のシーボルト門下へ伝習生として派遣された。しかし二人は性格が合わず不仲となったこと。②6代目の相良長美(六世柳庵)は、侍医の外科に欠員が出来たとき、順番に自分が就任せらるべきところを、佐野儒仙が妨害し、孺仙の門人を選任したこと。③七代目の相良安定(七世柳庵)が、長崎留学を希望した時に試験があり、その際の試験問題について佐野儒仙と確執があった。そして長崎留学が却下されたので、長美らが怒りついに佐賀を去り、伊万里へ転居した。」以上の理由を口述している。 しかし佐野儒仙が、安政3(1856)年に死去すると、相良長美は伊万里から佐賀へ戻り安政3年侍医に就任し、相良安定も慶応2年、長崎に留学することが出来た。よってこれで確執は終了した。
長美の長男で知安の兄相良安定(寛斎=七世柳庵)は、文政11年(1828年)9月25日に出生。幼名は信一郎、公安・文友から寛斎そして安定と名乗る。藩校弘道館から医学寮(後の好生館)に学ぶ。 嘉永5(1852)年に父長美と共に伊万里へ5年間転居した。嘉永6年(1853年)に外科の佐賀藩医業免札を248番目に受ける。 安政5年(1858年)から、大阪の蘭方医緒方洪庵が主宰する「適塾」に3年間入門した後帰郷し、文久元年(1861年)に「好生館指南役」を仰せ付かる。 万延2年(1861年)に好生館(現佐賀市水ケ江)の敷地内の五龍祠畔で、狗(いぬ)の解剖実習が実施された時も指南役として立ち会った。 文久3年(1863年)に佐賀医官種痘医として、伊万里領二里村の広巌寺に派遣され種痘に従事した。 元治元年(1864年)には、小城藩領の無量寺に二回出張して種痘を実施した。 同年父長美の死去により相良本家を跡目相続し、相良柳庵(七世)を名乗る。 朝廷は江戸幕府に長州征伐の勅命を出す。 同年9月長州追討の勅命に呼応した佐賀藩の軍医として出陣し、翌年帰藩する。 慶応元年(1865年)には「好生館教導方」に就任し蘭医学を講義した。藩主鍋島直正の侍医となる。
※「好生館」とは、佐賀藩が創設した医学校。創始は天保5(1834)年、佐賀城下八幡小路に創設された「医学館・医学寮」です。
※辞令「命中教諭」(七世相良柳庵=相良安定:明治4年6月「好生館教諭」)
慶応2年(1866年)には、勤役中につき長崎養生所お雇い蘭医ボードウインに就いて、調薬用法・外科術等の医学伝習のため長崎出張を命ぜられた。 帰藩後は、「好生館教導方兼帯」を仰せ付かる。 慶応3年(1867年)に直正公の上京にお供し、同年お供して帰藩した。明治元年(1868年)にもお供して上京。明治2年(1869年)には、直正公に同行して東京の佐賀藩邸へ出向く。「好生館教導方兼帯」を仰せ付かる。 明治3年(1870年)に大御前様(正室筆姫)大侍医兼務を命ぜられる。明治4年(1871年)1月の直正公逝去に立ち会う。直正公の御毛髪をお供に佐賀へ帰藩した。同年「好生館中教諭」に任命される。 直正公御病気の際に、昼夜のお骨折りに付き、藩より思召金二万五千疋を拝領する。明治6年宮内省より「少侍医」に任命され、叙正七位を賜る。
宮内省の辞令は、「相良安定 任少侍医 八月四日宣 右本日 宣下御請相成候条此旨相達候也 六年八月五日 宮内省 長次官御中」及び 「相良少侍医 叙正七位 右本日 宣下相成候条此旨御達申入候也 六年十一月十五日 坊城式部頭 宮内省 長次官御中」です。
明治7年(1874年)2月24日に47歳で死去。墓所は「城雲院」に眠る。
長美の次男で相良知安の兄相良武重(善次-源蔵、その後伊東武重)は、天保2年(1831年)8月28日出生。幼名は助次郎、善次源左衛門・源蔵から武重を名乗る。藩校弘道館で学ぶ。『楠公義祭同盟』(同同盟150周年記念碑建立期成会編:平成15年発行)によれば、嘉永3(1850)年から慶応元(1865)年まで、佐賀藩の勤王思想の藩士(大隈重信・副島種臣・江藤新平・大木喬任・島義勇ら)で結成した「義祭同盟」(ぎさいどうめい)に参加する。「義祭同盟」の中心は、佐賀藩の尊皇派で「九州の吉田松陰」と呼ばれる枝吉神陽が、主宰し結成した勤王結社です。伊東家へ養子となり伊東武重と名乗る。 その後明治改元後の武重は、同郷の同志である大隈重信を頼って上京し大蔵省に入省した。記録寮四等出仕従六位から明治4(1871)年12月に小倉県参事となり、大蔵大書記官や出納局長を歴任した。明治20年(1887年)4月13日に57歳で死去。墓所は東京青山墓地に眠る。
知安の弟相良元貞の詳細(「相良元貞とベルツ博士」)にて後述していますが、ここで相良元貞の略歴を記述します。
長美の四男で知安の弟相良元貞(有孚)は、天保12年(1841年)出生。幼名は貞四郎、有孚から元貞を名乗る。藩校弘道館から医学寮(蘭学寮)、そして藩医学校好生館で学ぶ。元治元年(1864年)、幕府医学所(松本良順頭取)へ永松東海と共に留学を命ぜられ入門する。その後下総佐倉の順天堂塾で佐藤尚中(塾創始者佐藤泰然の養子)に師事し蘭医学を学ぶ。塾では会頭を努め、『ヒルトル解剖書』や『ストクハルドト舎密書』を朝から夕方まで教授した。明治2年(1869年)大学東校の中助教兼大寮長に就任。 明治3年(1870年)には、大阪医学校中助教として勤務する。 同年12月、「第1回明治政府派遣ドイツ留学生」(9名)の一員として、プロイセン(ドイツ)のベルリン大学へ医学留学した。留学中は専門の病理学の勉強に励みますが、解剖実習中にメスで誤って自分の手指を傷つけ、そこから感染し肺病を患います。
※相良元貞(ドイツ留学中の明治5年頃:ベルリンにて)
明治7年(1874年)冬学期からライプチヒ大学医学部へ転学し、同附属病院へ入院します。そこで主治医となるE.ベルツ博士と出会いました。 ベルツは日本からの留学生である元貞を、献身的に治療しお世話します。異国の地で病に倒れ心細い思いをしていた元貞は、ベルツの温情にどれほど感謝したかは容易に想像できる。そして次第に元貞の母国日本に対し、強い好奇心と関心を抱きます。 元貞は、ベルツの評判を日本の兄知安へ手紙で伝えます。知安は早速ベルツをお雇い医学講師として、我が国へ招聘することを明治政府へ働き掛けました。明治8年(1875年)3月、ライプチヒ大学医学部を退学し失意のうちに帰国しました。同年10月、35歳の若さで東京にて死去。青山墓地に眠る。 ベルツは、翌明治9年(1876年)明治政府より招聘され来日し、東京医学校へ赴任しましたが、前年に死去した元貞との再会はついに叶いませんでした。
「さがの七賢人」の一人、江藤新平は、知安と同じ八戸村出身で竹馬の友で2歳上の先輩に当たります。藩校弘道館で共に学んだ大隈重信は、2歳年下の後輩です。
※「さがの七賢人」とは、佐賀藩出身の大隈重信・副島種臣・鍋島直正・江藤新平・島 義勇・佐野常民・大木喬任の七賢人のことです。 知安の生家は、文献調査や以前に八戸在住の古老からのお聞ききしたことを総合して、この写真の現在の八戸一丁目か八戸二丁目辺りと推測されます。当時の長崎街道沿いにありました。知安の自筆文書である『自記(人ハ自企テ生ルニ非ス人性自記スベシ)』と『履歴書』(佐賀県立図書館所蔵)には、「天保七年二月十六日肥前国佐嘉郡佐賀城下八戸町北側ニ生ル 郷社与賀大明神 同八年南側ニ移ル」とはっきり記載している。「村山漢方店」の西隣に生家があったとの説もあります。格子づくりの平屋で、知安は少年期を又蔵(江藤新平のこと)と、近所のお寺境内やクリーク(農業用掘り池)で鮒釣りなどして遊んで過ごしたのです。この友情は、その後も二人が明治政府に出仕してからも続きます。
知安は、天保14(1843)年に弘道館蒙養舎へ入り、嘉永4年(1851年)、16歳で藩校の弘道館に入学し寄宿します。大隈重信や江藤新平らとともに漢学を学びます。
※相良知安生誕地付近と旧長崎街道
※佐賀の七賢人 |
佐賀藩は、この年蘭学寮を設置し、医学館が医学寮となり蘭学寮を併設します。 そして弘道館生徒の中から優秀な人材を、蘭学寮へ入学させました。 知安もその一人で、19歳で蘭学寮に進み、教授の大庭雪斎からオランダ語を学び、21歳で創設されたばかりの医学寮へ入学します。「佐賀の七賢人」の大隈重信や副島種臣・江藤新平らも弘道館の学友として知安と学んでいます。 |
知安にとっては、弘道館での漢学や蘭学寮でのオランダ語を学ぶことより、医学寮で学問することが刺激になったようで、後年手記の中で、「又蔵(江藤新平)と遊んでばかりで、弘道館では、退学させられない程度に勉強した」と述懐しています。又蔵とは、江藤新平のことです。
佐賀藩の子弟教育は厳しく、「文武課業法」を制定し弘道館では及第点をとらないと、禄を大幅に削減させられました。
知安はこの頃に学問への情熱をなくし、一時怠惰な生活を送るなどしたので、父から叱責されています。その後長兄信一郎(安定)の励ましがあり立ち直り、学問へ邁進します。
※弘道館跡
※閑叟公と種痘の像 |
相良家の長男の信一郎(寛斎そして安定と名乗る)も、藩医学校で蘭医学を学びました。 安政5年(1858年)大阪遊学を命じられ、蘭医として有名な緒方洪庵が開いた「適塾」に入門し蘭医学を3年間学び、帰郷して好生館「医学校指南役」(文久元年)に就任し、慶応元年1865年)には藩主直正公の侍医となります。大阪の適塾からは、大村益次郎、福沢諭吉、佐野常民、橋本左内、長与専斎、高松凌雲らを輩出。 知安は23歳で、佐賀藩の医学校好生館に進学し、寄宿するよう命ぜられます。そこで生徒長として教官の助手を努める秀才ぶりを発揮しました。のちの慶応3年(1867年)には、長崎留学から帰郷した知安は、好生館で教導方差次(助教授クラスです)に就任し、後進の育成に努めます。 |
相良家は、本家と3つの支家にわかれていました。藩医とはいえ、禄高はわずかなものであり、本家でさえ34人扶持で、知行40石でした。 ちなみに、知安より2歳年下の大隈重信の家は、鉄砲組頭で知行400石(物成120石)・220人扶持であり、医師の家と武士で砲術家(兵法家)の家とは、待遇に大きな差がありました。
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