第二章

相良知安と佐賀藩

 佐賀藩主鍋島直正は、藩政改革として藩医の世禄(せろく)を削減します。当時は、一般に医師、特に外科医は地位が低かったのです。
 16歳の多感な知安は、父柳庵の減給が、腹立たしくてなりませんでした。 知安が後年、ドイツ医学導入と医科大学創設及び『医制略則(85箇条)』に情熱をかけたのは、この体験(いわるゆ藩医の地位の低さと待遇の悪さ)から、医師の地位向上を図りたかったのです。明治に入って知安が、医科大学設立の際に、医師を官僚より上位の職に位置づけたいと、強く願っていたのが伺われます。

 直正は、文武奨励と質素倹約を宣言し、藩政改革と石炭や陶磁器・海産物などの海外貿易をすすめます。文化5年(1808年)のフェートン号事件以来、外国と対抗できる軍事力の増強には、教育による人材育成が急務だと考えたのです。
 そして藩校「弘道館」教育で、藩士の子弟を育成した結果、「佐賀の七賢人」と呼ばれる人物をはじめ、明治維新で活躍した佐賀藩出身の多くの人材を輩出しました。相良知安もその一人です。

 

             ※佐賀城(鯱の門)

鍋島直正
※鍋島直正
貿易収入により藩財政が好転したので、佐賀藩は長崎警備のため資金を投入して、洋式大砲の研究と製造や武器・軍艦の輸入に乗り出したのです。
 大砲を鋳造するには、大量の鉄を溶解するために、まず反射炉を築造しなければなりません。大砲の専門技術書は蘭語でしたので、そのため蘭語を翻訳する必要がありました。
 そのため、当時の西洋の最新の学問である蘭学(オランダ)や、英語などの洋学を学ぶ優秀な多くの藩士らを、積極的に長崎や江戸・大坂へ留学させたのです。
 大隈重信、副島種臣、佐野常民らの七賢人をはじめ、相良知安らも江戸や長崎へ留学させられました。これが直正の教育改革です。

 佐賀藩は、嘉永4年(1851年)に、『佐賀藩免札医業姓名簿』を発行します。
 旧来の世襲的な徒弟制度であった医師養成を改め、藩医学寮に入学し、医業の試験を受け合格しなければ、免許を与えないという医師免許制度ができます。これは、我が国で最初の医師免許試験制度と言われています。

 明治8年(1875年)に「医術開業試験」が東京・大阪・京都で実施されますが、その原型(ひな型)が佐賀藩のこの画期的な免札医業制度であり、佐賀藩の先進性を示すものと言えるでしょう。
 免札を受けた者は、642名の医師が登録されました。知安の父相良柳庵も、嘉永4年(1851年)に外科の免札医師として登録されています。

 佐賀藩は文久元年(1861年)、知安の才能を認め江戸で学問することを命じます。
 知安は江戸から『佐倉順天堂塾』(現在の千葉県佐倉市)に入門し、創始者の佐藤泰然(さとうたいぜん)の養子、佐藤尚中(さとうたかなか)に師事し、蘭医学を学びました。

佐倉順天堂塾跡
※佐倉順天堂塾跡
 「順天堂塾」で2年間学んだ知安は、門下生33名のトップに名前が挙げられ、塾頭として頭角を現します。
 当時の佐倉順天堂塾は、大阪の緒方洪庵が主宰する適々斎塾(てきてきさいじゅく)と並んで、民間蘭学塾の雄として多くの俊才を輩出しました。同門には、後に医学制度改革に共に活躍した福井藩医の岩佐純や長谷川 泰、司馬凌海(りょうかい)、佐々木東洋など全国各地から集った英才が学び、切磋琢磨していました。

 文久3年(1863年)に、長崎遊学(医学伝習)を命ぜられた知安は、恩師である佐藤尚中の勧めで幕府の医学校である「長崎養生所」(のち「精得館」と改名し、現在の長崎大学医学部の前身)に進みます。


 

       ※「長崎養生所」(後の「精得館」)

        (『出島の医学』相川忠臣著より)

そこでオランダ人軍医ポンペの後任として赴任した、オランダ軍医のボードウイン(1820~1885年)に師事し、研鑽を積んだ知安は、その学才を認められ、戸塚文海の後任の館長として活躍しました。長崎大学医学部の前身である「精得館長」として活躍した知安は、現在の長崎大学医学部と深いご縁が有るのです。
また佐賀藩からの伝習生である島田芳橘・永松東海・江口梅亭などの名医を養成しました。 精得館時代に知安は、当時の蘭医学書のほとんどがドイツの医学原書である、内科・外科・解剖学・生理学・病理学・薬学の原書をオランダ語に翻訳したものであったことに気付いていました。

ボードウインと知安ら門下生
※ボードウインと知安ら門下生(知安は前方ボードウインの右で腕を組む人物)

 長崎出島に滞在していたオランダ商館付き医師のケンペル(1651~1716年)や、6年間滞在した「日本科学史の恩人」であるシーボルト(1796~1866年)も、ドイツ人でありましたし、また語学としてのドイツ語に日本人は親近感が有ることを、知安は知っていたのです。
 事実、19世紀後半の基礎医学ではドイツ医学の世界的進歩はめざましく、知安がドイツ医学を学びたいと思ったのも当然といえるでしょう。

慶応元年(1865年)藩主直正自ら長崎に出向き、蘭医ボードウインに面会し治療を受けます。

ボードウインから直正が治療を受けた際の通訳を、同伴した相良知安が行いました。直正公はその後の治療法について容体書を以て、ボードウインへ処方を求めていましたので、知安がその処方の翻訳を行いました。知安は当時長崎と佐賀を往復しては藩主直正を内診し、それを長崎のボードウインへ伝えて診療の取り次ぎを行っていました。そして知安は藩主直正の信頼を得たので、ボードウインと随行してのオランダ留学を命ぜられます。この頃から知安は、自分が日本医学のためになろうと志したのです。慶応2年(1866年)秋、ボードウインの帰国前に佐賀藩主直正ら一族の健康診断を、ボードウインへ依頼したので知安は、直正に同行して伊万里から有田、武雄に氏を出迎えました。 当時の庶民は、蘭人のボードウインを見るのがめずらしい時代でしたので、長髪の日本人である知安が通訳としてその外人に附き添っていたのを見て、相良知安の名前が広く知られるようになりました。

ボードウインは知安の才能を高く評価し、幾度となくオランダのユトレヒト大学への留学を勧めましたが、父柳庵の病気を理由にこれを辞退します。

致遠館の佐賀藩士(慶応3年)
※致遠館の佐賀藩士(慶応2年)知安は後方中央の人物。

佐賀藩は長崎に慶応元年(1865年)に設立した、英語学校『致遠館』に佐賀藩士の知安、大隈や副島、小出千之助、中野健明、中山信彬、中島永元らを学ばせました。語学に堪能なアメリカ国籍の宣教師フルベッキから知安は、大隈や副島らとともに、アメリカ憲法と聖書を原書で学びました。

佐賀藩出身で明治維新に活躍した人材の多くは、弘道館や致遠館出身の逸材でありました。

 慶応3年(1867年)帰郷した知安は、直正の侍医兼「好生館教導方差次」(助教授)に就任し、慶応4年(1868年)藩主直正に従い上洛します。直正の病状を京都の佐賀藩邸で診察して支援したアメリカ海軍医ボイヤーに、知安が二回に渡り兵庫県に滞在のボイヤーを訪問し、直正の病状経過を報告している。この治療により直正は健康を回復したので、知安はボイヤーに対し尊敬の念と感謝の気持ちを表し、お礼を述べています。

【参考文献】

『アメリカ海軍医ボイヤーの見た明治維新(1868-1869年の日本)』(布施田哲也翻訳:2016年)

 

→「第三章 ~相良知安とドイツ医学導入」

Copyright (C)Sample Inc. All Right reserved.